アニメーション音楽のシンクロ率

アニメーション音楽の歴史を見ると、歴史というのは一方向に進まないし、
それは進歩というより変化というべきものだ、ということがよくわかる。
最近、柳田国男の「木綿以前の事」(岩波文庫)を読みなおしたら、

万人の滔々(とうとう)として赴(おもむ)く所、
何物も遮(さえぎ)り得ぬような力強い流行でも、
木が成長し水が流れて下るように、
すらすらと現われた国の変化でも、
静かに考えてみると損もあり得もある。
その損を気づかぬ故に後悔せず、
悔いても詮(せん)がないからそっとしておくと、
その糸筋(いとすじ)の長い端(はし)は、
すなわち目前の現実であって、
やっぱり我々の身に纏(まつ)わって来る。

なんてことが書いてあって、
こんなにエレガントに進化論をきちんと語った文章が
今あるだろかと改めて感心したけれど、
同じことはアニメーション音楽についても言える。


たとえば、現在のTVアニメ音楽はどうか。 楽器やメロディなどではなく、 音楽と映像の関係について考えると、 意外にそれはシンプルであることがわかる。 多くのアニメでは、 基本的にはいくつかの状況に合わせた音楽が あらかじめ用意されている。 戦闘シーンなら戦闘シーン、 リラックスシーンならリラックスシーン。 で、音楽のクライマックスと映像のクライマックスが おおよそシンクロするように音楽が編集される。 もしくは音楽の長さを見込んで映像が作られる。 水戸黄門も「エヴァンゲリオン」本編も、 音楽は違えど、音楽と映像の関係は同じなのだ。
でも、アニメーション音楽はずっとこうだったわけではない。 たとえば1930年代のベティ・ブープ映画の音楽シーンをみると、 動きがじつによく音楽とシンクロしている。 これは、まず音楽が頭にあって、 それに合わせてアニメーションを作ったり、 じっさいの人物に合わせてアニメーションを描いたりしていたからだろう。 シリーシンフォニーもまたしかりで、 つまりはじめに音楽の構造ありき。 こういうセンスはどちらかというといまのMTVに近い。 「エヴァンゲリオン」のオープニングを見て、 その音楽と映像のシンクロ率にみんなのけぞったけれど、 シンクロ率という点では、 じつはかつてのカートゥーンは すでに相当のクオリティを達成していたのだ。
しかし同じ1930年代でも、 伴奏音楽となると、もっと単調だ。 響きはジャズでモダンだけど、 だいたい一定のテンポに乗って 同じ調子で音楽が進行していく。 こういうのはむしろ、アニメーターが 一定のコマ割りで動きのタイミングを測って描いてしまい、 音楽が後からそれに合わせにいったのではないか と思われる。
1940年代になると、 伴奏音楽も息づいて来る。 ひとつには、同じテンポを用いながら、 メリハリをつけるテクニックがいろいろ出てきたことによる。 リズムを倍にしたり、三連を用いたりする。あるいはポリリズムを用いる。 始終音楽を鳴らさずにジャーンとショッキングなコードを用いる、などなど。 こうしたテクニックは、トムとジェリーの初の作品「Puss gets the boot」(1940)で すでに使われている。 さらには、 こうした傾向に 次第に拍車がかかり、 映像の一挙手一投足に 音楽が細かく合わせるという、 非常にくどい作りになってくる。 トムが首を振ると音楽も首を振る。 ジェリーが一歩踏み出すと音楽も一歩踏み出す。 アニメーションの構造が細かくなるほど音楽の構造も細かくなった。 その結果、いま聴くとめまいがするほど変化の激しい曲になっている。 それでも、やはり歌ものの魅力は残る。 たとえば Tex Avery の「Red hot riding hood」で、 赤ずきんちゃんが頭巾を脱いで歌を歌い出す時の開放感は、 それまで映像に合わせていた音楽が、急に主役を取る開放感でもある。
1940年代には、 音楽と映像の関係にもうひとつのタイプが現われた。 先に音楽を自由なテンポで演奏して、 あとからアニメーションをつける作品の登場だ。 たとえばトムとジェリーの「Cat Concerto」(1947)。 ハンガリア狂詩曲がテンポ・ルバート、つまり テンポを自由に変えながら演奏されているのに、 トムの指がそれにぴったり合わせて鍵盤を押さえ、 しかもその動きが音楽に縛られて見えるどころか、 ごくなめらかに見える、 というすさまじいシンクロ率を生んでいる。 こんなとてつもないものを作ったアニメーターは、 テンポの緩急に合わせてギャグの細かいコマ割りを 何度も頭の中で考えては消したに違いない。
しかし、1950年代になり、音楽にも変化が現れる。 ひとつひとつの動作に音楽の構造が合わせるのではなく、 むしろ、録音後の編集作業によってメリハリをつけていく、 そんなタイプのアニメーションが出てきた。 テックス・アヴェリーの後期の名作「Magical Maestro」や 「Dixieland Droopy」などでは こうした録音後の作業が生んだメリハリが光っている。 さらに時がたち、 金のかかるアニメーション映画の維持が次第に厳しくなってくる。 TVの登場もアニメーション映画の衰退に拍車をかけた。 1958年にはスコット・ブラッドリー、カール・スターリングという、 アニメーション音楽の二大巨頭が相次いで引退し、 MGMのカートゥーンセクションは閉鎖に追い込まれる。
「トムとジェリー」は後に、 チャック・ジョーンズの粋な映像でTV版として復活する。 音楽からはやがて弦楽器が除かれ、吹奏楽中心の編成となった。 擦ることと吹くことの対比が失われ、 音楽はより洒脱になり、潤いが消えた。
現在、日本のアニメのほとんどは、 あらかじめ作られたいくつかの曲の中から、 そのシーンの状況に合わせて選曲がなされている。 シーンに合わせて適当な音楽を当てはめる、 というのは、じつはサイレント時代の伴奏音楽と同じ発想だ。 アニメーション音楽は、ある意味ではこの原点に戻った というふうに考えることもできる。 もちろん、 サイレント時代とまったく事情が同じわけではない。 現在は、一度録音した演奏はくり返し使うことができる。 アニメーターは、すでにある演奏に合わせて、 逆にシーンの時間配分を考えることができる。 あるいは適当な小節数を編集して音楽を切り詰めてしまうこともできる。 MIDIを使えば、アニメーターと音楽家の間で 精細なタイムシートをやりとりできるはずだし、それによって すごいアニメーションが生まれる可能性があるんじゃないか と思うけれど、たとえばNHK教育の 「音楽ファンタジー・ゆめ・Dreams」なんかを見ていると、 音楽も映像も技術が進んだのに、その関係からは、 平滑にシンクロする空しさしか感じられない。
ともあれ、現在のセルアニメ音楽は、 直球であれパロディであれ、 さあ泣けさあ笑えさあ戦いだと状況を説明する状況音楽がほとんどで たとえば「もののけ姫」の音楽が賞賛されるのは、 米良美一の歌声以上に、 そのいかにもわかりやすい状況ぶりゆえ、ではないのか。 ぼくはそういう一筆啓上御涙頂戴風の音楽と映像の関係が好きではないので、 いっそゴダールみたいな、シンクロ率のやたら低い音楽と映像の関係を アニメーションで見てみたいもんだと思ったりする。 いや、などと偉そうなことを言ってると、 きっとアニメーションは思わぬところから、 ぼくを驚かしたりするのだ。それがトゥーンの魂というものだ。 40〜50年代に突然変異のように現われた、 あのくどくどしくもめまぐるしいアニメーション音楽が TVから聞こえてくることは、いまではほとんどないが、 (それともパーフェクトTVに入ろうか) 子供の頃「ロード・ランナー」の音楽をカセットテープに取ったという ジョン・ゾーンによって、それは全く違う舞台から とっちらかった構造の音楽として聞こえて来ることになる。 (98.3.18 改訂)


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