亀は踏むと止まる

「ワンダと巨像」日記


*ゲームの内容に触れている箇所多数。ヒントを見ずに解きたい方は読まないほうが吉。
































20051030

購入。導入。

 mixi内で以前からゲーム語りについて信頼できると思っていた複数の人の日記で「ワンダの巨像」の名前が挙がり始めた。その名の通り、どうやら「巨像」と戦うらしい。らしいのだが、宣伝も見たことがないので、どんな絵なのかわからない。これではただの一行知識に過ぎない。過ぎないのだが、その「巨像」というのがおもしろいなと思う。

 つまりそれは、スケールの違いを体感するゲームのはずで、最近、パノラマとスケール、絵はがきとスケールの問題を考えているぼくには何かひっかかりがあるはずだ。

 ぼくはもう4年以上いわゆるTVゲームをしていない。ちょっとゲーム脳が足りなくなってきた頃かなと思い、ひさびさに手を出すことにする。気がつくと、そもそもPS2本体を持っていなかった。近所の電器屋に行って本体とソフトをいっしょに買う。パッケージを見て、ようやくこういう画像なのかと思う。巨像といっても、どこかゴーレムのような感もあり、なかなか人間くさそうだ。

 以前は新ゲーム機が出てまもなく買っていたので、ゲーム機じたいのスペックが楽しみだった。しかし、PS2はもう数年経っている。起動画面を見ても控えめなサウンドロゴを聞いても、新しいという感じより、懐かしいという感じだ。懐かしいもなにも、初めて見聞きするのだが。

 さっそくソフトを起動。これまた、なにもかもが新しい、はずなのだが、何か既視感がある。「ロード・オブ・ザ・リング」だな、と思う。少なくとも、自然の造形にはかなり指輪の影響が感じられる。三部作を見てしまったぼくの目には、ちょっとこのCGは粗いなと思える。
 もちろん、いくら浦島太郎のぼくでも、ゲーム機の画面でこれだけの緻密な映像が矢継ぎ早に現れることの凄さくらいは分かる。映画のCGと較べるのが無茶だというのも承知している。ドットの粗さや描線のディザをいちいち気にするほうではないし、それが味になっている場合は積極的に楽しみもする。ただ、このCGの志が、指輪方面を向いているような気がするので、つい、このCGを0と指輪との間に位置づけてしまうのである。ゲームソフトとしてはすばらしく指輪のクオリティに近いと思うが、「ゲームソフトとしては」という但し書きが残念である。

 主人公の髪の毛がさらさらと細かく描かれている。ぼくはファイナル・ファンタジー調のさらさらCGヘアーが苦手である。そういえば、最近、頭皮データまでCGで再現するゲームソフトがあるという噂を聞いたことがあるが、このまま行くとCGキャラはヘアチェックのデータをまるごと再現して、枝毛ぐあいまで目で見えるようになるのではないか。
 それにしても導入が長い。説明はいいから早くコントローラーを握らせてくれないかなと思う。

馬を駆る。

 ようやく、主人公を動かす段になった。どうやら馬があらかじめ付いてくるらしい。これはいい。馬は好きだ。ゼルダの伝説「時のオカリナ」をやっていたときは、とにかくわけもなく馬を駆るのが好きだった。ようやくとっかかりを掴めそうだ。
 どこからともなく声がして、知らない国のことばで、剣を光に掲げると敵の位置が分かる、というグッドアドバイスを受ける。しかし、ぼくには、引っ越し先でまず近所を散歩する癖がある。アドバイスは無視して、適当にあちこち馬で走る。

 しばらく走るうちに「指輪」モデルがだんだん頭から離れて、このゲームのCGの質感が染みてくるようになってきた。
 ときどき馬を止めて、右スティックであたりを見回す。岩肌といい、地面といい、空といい、じつによく描き込んである。日向は露出がやや高めの景色で、日陰はうっすら霧がかかっている。光が過剰に乱反射しているトーンで統一されている。そのおかげで、ディティールは淡くなり、そこを目が補完して、光が空気にこもっているような、浮世離れした質感が出ている。

 解説書には、果物などの食べ物を手に取ることができると書いてあるのだが、なかなかそれらしいところには行き当たらない。亀があちこちにいるところを通りがかったので、馬から下りて踏んでみる。何かイベントが起こるかと思ったが、亀はただじっとしている。

身体は動くマップ(一体目)

 そしてようやく剣の光に従い、第一の巨像の場所へ。アプローチは一種の動作トレーニング場になっており、ジャンプ:△、つかまる:R1、つかまりながら移動:R1+左スティック、つかまりながらジャンプ:R1→△、前転:R1+△といった基本的動作が必要な地形になっている。

 で、きた。巨像でかい。これはでかいわ。剣と剣、というような勝負が不可能なでかさ。

 そして、ようやくわかったのだが、これは身体パズルなのだな。巨像のでかい身体のあちこちにつかまりどころ、ジャンプのしどころがあって、急所までのルートを解く。身体がマップである。

 そして、この身体というマップは動く。
 アクションゲームという問題は、いかに重力をゲームの拘束力へと変換するか、という問題であり、よいゲームというのは、ほとんどの場合、重力を再認識させてくれる(ゲーム経験の少ないわたしが言うのだから間違いない)。その意味で、このゲームはとても新しい。つまり、身体というマップであるがゆえに、マップじたいが三次元で揺れるのだ。

 そしてそして。ファイナルファンタジー髪が苦手だなんて言ってごめんよ。毛だった。毛がつかめるのだった。このゲームの毛は、見せる毛ではなかった。つかむ毛なのだ。いま、ゲームの毛は見る対象からつかむ対象になった。ゲームは「わらをもつかむ」を映像化することに成功した。
 いやあ、一体倒したところで、これはいいゲームだと思いました。


 

20051102-07

人の気配のない世界

 断続的にプレイ。どうやら、馬を駆って風景を見る、という時間と、巨像対決、という時間とが交互にやってくる展開のようだ。

 それにしても、なんとも人の気配のない世界である。誰かに道を尋ねたり、誰かと物々交換したり、ということがまったく行われない。そもそも、城に眠る女性と主人公以外、人が登場しない(あとで多少登場するが)。巨像を倒したときに主人公にとりつく黒い鞭のようなもの(エヴァのシトを思い出させる)、それに続く目眩、そして目覚めかけては眠りについてしまう女性のイメージ連鎖を見ていると、これは巨像を倒す旅というよりは、主人公もしくは女性の見ている夢の連鎖に過ぎないのではないかという感じがしてくる。城で主人公に投げかけられる声も「次の相手は・・・」で始まるインストラクションばかりで、ひとつひとつの巨像を倒すことが、この物語世界にどのような意味を持っているかはまったく明らかにされない。

 プレイを続けるうちに、その感じがだんだん息苦しくなってくる。つまるところ、この物語は、どこにも行きはしないのではないか。

 いくつかの巨像の攻撃性のなさはさらにこうした疑問を推し進める。空を飛ぶ巨像などは、遠目に見てもじつに優雅で、何もわざわざ倒さなくてもよさそうな存在に見える。
 もっともゲームとしては、それぞれの巨像のもつ異なる攻撃性によって、ある種のメリハリがついている。最終的には、相手の体にとりつかない限り倒せないので、攻撃的な相手に対しては、こちらの姿を見せることで相手に攻撃させて近づく、もしくはなんらかの方法で攻撃を止めて近づく、ということになる。いっぽう単に移動を主体とする相手に対しては、近づいてきたときにとりつく、ということになる。
 途中までノーヒントで進めたが、砂のフィールドを猛スピードで攻撃してくる巨像で、もう到底独力では解けなくなってしまい、ネットを参照する。馬に乗りながら、というところまではわかったのだが。もうひとつ、「高いところにのぼれ」とヒントの出る巨像も、解き方がわからず、ネット参照する。
 取り立ててアイテムを使うわけでもないのに、十数個の巨像を登場させ、シンプルなアクションの組み合わせで飽きさせない。主人公の能力を多彩にするより、環境を細かく設定することで行為を多彩にする。アクションゲームとしてはとても優れていると思う。



























20051108

 ようやく終了。
 エンディングで因果応報なシークエンスが現れ(詳しくは略す)、スケール感覚の変化が感じられておもしろかった。アクションゲームとしては大満足。

 プレイ中、この戦いは、もしかすると助けられる女性なりワンダなりの個人妄想であるに過ぎないのではないか、という問いが繰り返し頭の中に灯ってずっと息苦しい感じだったのが、エンディングで、ゲーム空間という狭い世界の、さらに狭い屋上庭園という世界で閉塞させられる下りは、もうほとんど呪いとしか感じられなかった。
 ゲームやネットを介して物語に耽溺させておいて、最後にその過程じたいを突き放すという手法は、映画の「電車男」を思い出させる。そういうオチに作れるというのは、ある種の頭のよさなのだろう。
 それにしても、ゲームという長い時間をかけてなぜ人をこのような地に誘うのか、という素朴な疑問は去らない。


 

the Beach diary