「幽霊の継子いじめ」と継子譚



細馬宏通


はじめに

 巻町ののぞきからくりで語られる「幽霊の継子いじめ」は、初めて聞く者にとっては異様な物語である。そのあらすじは以下のようなものだ。

大坂天下茶屋の佐々木勇は、妻ふじゑが長のわずらいで病院がよいを続けるその間に茶屋通いをするようになり、芸者とみ子を身請けして、さらには我が家に連れ込む。ふじゑはやがて病がこうじ、娘の静江の行く末を案じながら亡くなる。しかしとみ子には連れ子である実子の花子があり、財産を継ぐには継子の静江がじゃまになる。とみ子は亭主のいない夜をねらって幽霊のふりをしては静江の命を縮めようとする。静江はこの恐怖を卒業式の日に先生に告白し、不審に思った先生と熱田巡査は、静江の家を調べることにする。ちょうどその夜、とみ子が幽霊姿となり静江をおどかしていたそのとき、偶然その幽霊姿を見つけた実の子である花子の方がショック死してしまう。その後とみ子は裁判にかけられるが改心が認められて執行猶予となり、尼になる。

 タイトルからは、継母が死んで幽霊となり継子をいじめる、という物語を想像してしまいそうになるが、じっさいは、継母が幽霊に扮装して継子を恐怖に陥らせるという話で、しかも幽霊姿によって継子ではなく実子が誤って死んでしまうという意外な展開である。
 この奇妙な話は、果たしてこののぞきからくりの作られた明治・大正期に突然作り出されたのだろうか。それとも、なんらかの歴史的背景を持っているのだろうか。ここでは、昔話研究でしばしば扱われる「継子譚」を手がかりに、「幽霊の継子いじめ」の由来について考えてみよう。

 なお、「幽霊の継子いじめ」の内山ミヨ氏による実演は小沢(1984/2001)に収められており、その内容は巻町郷土資料館 (1988)で文字化されている。以下、これらを原資料として物語の構造を検討しよう。


継母の嫉妬から継子=少女いじめへ

 継子譚の起源については三浦(1992)が考察を行っている。そのアウトラインは以下のようになる。
 継子譚を継母の嫉妬の物語と見るなら、その起源は古く古事記、日本書紀まで遡ることができる。しかし、これらの物語内では、継母の嫉妬の対象は前妻に向けられており、それが継子に向けられることが問題になりはじめたのは「続日本紀」頃である。また、継子いじめは当初、男子を対象とした貴種流離譚や太子いじめの物語に重なっていたが、平安期の「落窪物語」になると、それがいじめられる少女としての継子譚に変化している。

 西洋には「シンデレラ」譚をはじめ、継子をいじめる物語が数多く存在する。日本の継子譚には、西洋の物語からの影響が混在していないだろうか。三浦(1992)は、その可能性を認めつつも、継母の「嫉妬」という原動力は、あらゆる文化で作動可能なものであり、継子譚は単に輸入されるのでなく、それぞれの文化で独自に発展してきた可能性があることを強調している。
 この主張を受け入れるなら、「幽霊の継子いじめ」についても、日本古来の継子譚を組み合わせたものとして生まれた可能性が考えられるだろう。


実話の可能性

 継母による女子の継子いじめという点では、「幽霊の継子いじめ」は典型的な継子譚に属する。だが、物語の細部については実話をもとにしている可能性がある。
 たとえば「学校」「卒業証書」「巡査」「裁判所」「プラットフォーム」といった要素があることを考えると、物語は少なくとも明治中期以降を舞台にしている。口上には「大坂天下茶屋」という地名もあるし、「佐々木勇」「とみ子」などと、人名も具体的である。佐々木勇は軍人という設定らしく、押し絵の中では軍服を着用している。
 もしこれらの要素のいくつかが実話にもとづくものならば、同様の話が明治・大正期の新聞メディアによって報じられた可能性がある。
 じっさい、継子いじめは説話としてだけでなく事件として明治・大正期に盛んに掲載されており、明治・大正の読売新聞CD-ROMを使って「継子」or「継母」で検索すると100件以上の事件がヒットする。そこで、これらの記事の内容を逐一調べてみたが、幽霊に扮して継子をおどした、あるいは継子を殺そうとして誤って実子を殺したといった事例は見つからなかった。
 ただし、今回は読売新聞のみを対象にしたので、さらに他の新聞を用いた調査の必要があるだろう。


昔話との類似性

 もうひとつの可能性は、古来多くのバラエティを持つ継子譚との関連である。継母が幽霊に扮したり、誤って実子を殺すといった奇妙な物語は、昔話の話型から派生した可能性がある。
 このことを検討するために、この物語のモチーフを今一度確認しておこう。

1:前妻が死に、後添えとなった継母には連れ子がいる。
2:継母は、夫のいないあいだに毎夜幽霊に扮しては継子の寝床に訪れ、継子をいじめる。
3:継子は自分の幽霊体験を先生に告白する。
4:先生と巡査が現場に踏み込み、幽霊の正体が継母であることをつきとめる。
5:継母は継子を殺すつもりが、まちがえて自分の実子を殺してしまう。
6:継母は裁判にかけられ改心して尼になる。

 まず、1-4の部分に対応する話型として丸山(1977)の取り上げている「継母の化物」を挙げることができる。両者の内容を以下に並べて比較しよう。

「継母の化物」
 母親が亡くなって父と子だけのところへ同年輩の娘をつれ子した後妻が来る。後妻は継子が憎くてたまらないので、どうかして父親にわからないように先妻の子を殺してしまおうと考えた末、毎晩化物になっておどかし、だんだん弱らせて殺そうと決める。カボチャを半分にして顔とし、真赤なナンバンで角を、トウキビの毛で髪をつくり、耳まで裂けた口からコンニャクの下を出し、子供の寝ている所へ行ってその冷たい舌で舐めた。継子は、声を出すと食うといわれてふるえるばかり、人に言ったら殺すなどとおどかされる。継子はだんだんやせていき、遂に父親に告げると、その夜父は子の寝床に寝て、継母のしわざということをつきとめて離縁してしまった(山形県真室川)
(丸山久子 1977a)

「幽霊の継子いじめ」(部分)
 今日は学校の卒業式、あまた生徒が集まりて、卒業証書をもらわれて、喜びいさんで帰られる、中に静江(継子)は唯一人、唯呆然とうちしずみ、これを見られた先生は、いかがしたかと尋ねれば、聞えて下さい先生様、父上留守と思う晩、不思議とゆうれい現れる、私の驚きいかばかり。
 話を聞くより先生は、かねて噂が悪いわい、その場を見とどけてくれんと熱田巡査と相談し、すきをうかがう折りも折り、それとも知らずとみ子さん(継母)、白い着物を身にまとい、髪はざんばら乱れ髪、口に輪櫛を咥わいられ、ゆうれい姿と身を替えて、眠りし静江の枕辺に、あなうらめしやと現れる。
 その物音に目をさまし、見ればゆうれい立っている、驚き悲鳴を上げるなら、となりの部屋の花子さん(実子)、悲鳴の声に目をさまし、見ればゆうれい目の前に、アッとその場に気絶する、騒ぎを聞き付け先生と、熱田巡査が飛び込んで、手早くとみ子に縄掛ける、先生花子を抱き上げて、いろいろ介抱致せしが、も早やこの世の人でない。
(巻町郷土資料館 1988、カッコ内筆者)

 母親が化物に扮装して継子をいじめる点、それが父親の知らないうちに、夜、継子の寝床で行われる点、さらには継子が大人に自分の恐怖体験を告げる点で、この話の構造は「幽霊の継子いじめ」の1-3のモチーフとぴったり重なる。

 次に、5の部分に対応する話型としては、関(1980)の分類した18型の継子譚の中から、「米埋糠埋(こめうめぬかうめ」(205B)を挙げることができる。この話は「1:継母が継子を糠の中に入れて寝かせる。2:実子を米の中に寝かせので(原文ママ)凍死する。」というもので、継子を殺そうとして誤って実子を殺してしまうという点が「幽霊の継子いじめ」の5のモチーフと一致する。

 さらに、話の終結として継母に何らかの処罰が加えられるという6の結末部分については、継母が尼となる「落窪物語」をはじめ、関(1980)の分類する継子譚話型にも広く類型が見られる。

 以上に見たように、「幽霊の継子いじめ」の物語におけるモチーフは、複数の昔話の話型を折衷した形になっている。特に、「継母の化物」譚と「米埋糠埋」譚の接続部分となる5では、それまでほとんど登場しなかった実子がいきなり登場して死んでしまい、1-4での展開との間に大きな断層が生じている。
 しかし、この断層はかならずしもこの話の短所ではない。前半の1-4の段階における聞き手の注意の焦点(幽霊の正体)は、「となりの部屋の花子さん」という実子の登場によっていきなりずらされ、その実子の気絶の声は、先生と巡査を招き入れ、話の焦点は、継母の捕縛というできごとに切り替えられる。しかもそれは「手早くとみ子に縄掛ける」と、まさに手早く語られて、「先生花子を抱き上げて」という声に聞き手が再び実子に注意を向けると、実子は単に気絶していたのではなく死んでいたという不意打ちに驚かされることになる。
 この一節一節、畳みかけるように焦点を変えては急迫する口上によって、聞き手は「幽霊の継子いじめ」というタイトルで予想される事件とはまったく異なる「実子の誤殺」という事件に導かれ、衝撃を受ける。実際、土田年代氏による口上を聞きながらのぞきからくりを見ていた際、「も早やこの世の人でない」というくだりでは、私も含めて見物客から「ええっ」という声があがった。


物語と実話の往復

 ここまで見たように、「幽霊の継子いじめ」は複数の昔話話型の折衷として説明できる(*1)。が、物語の構造が昔話の話型と一致するからといって、実話による影響の可能性が消えるわけではない。

 たとえば、継子譚の話型のひとつに「継子の蛇責」(関 1980)がある。これは「継母が蛇の入った桶に継子を入れて殺す。父が継母を同じ桶に入れる。」という凄絶な話で、丸山 (1977b)が「大国主命の蛇室の話以来の説話」と指摘する通りその起源は古い。
 しかし、だからといって「継子の蛇責め」が単なる昔話であるということにはならない。興味深いことに、明治・大正期の事件を調べていくと、じっさいに継子を蛇責めにした記事が散見されるのである。

○継子を蛇責めにす
 聞くだに身の毛もよだつ怖ろしき事実あり滋賀県××郡××村の樵夫某の妻は一人の男の子を遺して先年死亡せし後迎へたる後妻は本年八歳なる継子を虐待すること甚だしく昨年懐妊の身となりてよりは一層残忍の度を増し此程も毎日一二疋のヘビを生捕(#とら)へ帰りては密かに空長持に入れ置き一両日前亭主は例の山稼ぎに行きたる後継子を裸体とし荒縄にて縛り蛇の三十疋余もかたまり居る長持の内に継子を投げ込み蓋をして重石を置きそのまま田草取りに出たるが無惨にも蛇責に逢ひ居る子供は夢中になりて呻き居る音の只ならざるを巡回の巡査が聞き付け同家に入らんとするも戸締りしあるより隣家の人に立会わせ同家に入り取調べたるに右の有様なるに流石の警官も打驚き取敢へず子供を救ひ上げ応急の手当を為し一方継母を引致し目下取調中なりといふ(読売新聞/明治40年8月3日)

○継子の蛇責
 茨城県××郡××村大字××内××梅吉の後妻お美代は継子広吉(四つ)を虐待する事甚だしく此程同家の近所を廻る飴売爺がいつも欲しさうに指を喰へて出てくる広吉が見えざるより家の様子を窺へば子供の泣声が聞ゆるので益々訝りゐるうち巡回の警官が来合せ共々耳を澄ますに戸棚の中より怪しき泣声のするより屋内を探せしに土間の所へ倒(さかさま)に伏たる四斗樽ありて其の上には笊に意志を入たる重石が載せあるに目をつけ重石を除きて起し見れば中より一匹の蛇勢ひ込んで飛び出したる其のあとには顔色青ざめて息も絶々(たえだえ)なる広吉が並みだながらに座し居たれば抱起し子細を問へど何様当年四才の小児只泣くのみにて何も答へず折りしも継母のお美代が壺笊提げて帰り来りしより警官を一応の取調べを為し壺笊の中を取調べしに驚くべし中には見るも薄気味悪き黄頷蛇(あおだいしやう)二匹の入れあるを発見し直ちに××署へ引致し広吉は××の××病院に入院させたりとの事なるが今時にあるべからざる話のやうな話ならずや(読売新聞/明治40年11月13日 なお、地名実名は伏せ字にした。)

 巡査、警官といった登場人物が新しいものの、父の知らぬ間に継母が継子をいじめる点、その方法が蛇責である点で、これらはまさに「継子の蛇責め」の明治版である。粉飾やでっちあげの可能性もゼロではないが、少なくともこの「継子の蛇責め」は、場所も実名入りで報じられることによって、昔話ではなく、同時代の特定の場所で起こったできごととして語られている。
 おそらく古来から語り継がれてきた物語は、現実に事件を引き起こす人々の行動形式に影響を与え、起こった事件はさらに物語のディティールを提供し、それを繰り返すことで物語は次第に危うい虚実の間を漂い、その迫真性を深めてきたと考えられる。
 継子いじめの物語を聴くことが即、継子いじめを促進するかどうかはわからない(むしろその内容の凄絶さによってじっさいの継子いじめが忌避される可能性も考えられる)。が、継子いじめを現実に行おうとする者がその方法について考えをめぐらすとき、古来から物語られているいじめの方法を想起し、それを選びとってしまうことはありうるだろう。また、記者がどのような要素を拾い上げて事件記事を書くかについて考えをめぐらすときもまた、物語を想起し、物語に影響を受けるだろう。

 「幽霊の継子いじめ」が実話かどうか、初めて聴く者は知るよしもない。しかしそこに登場する「巡査」「警官」「学校」といった明治以降の道具立ては、古来の物語と現実との間で行われる虚実の往復が、明治以降もなお為されてきたことをほのめかす。そしてこの往復の気配こそが、聴く者を恐怖させるのではないだろうか。



参考文献

小沢昭一 1984/2001 『新日本の放浪芸』(DVD) ビクターエンタテインメント株式会社
関敬吾 1980 『日本昔話大成』 第11巻「資料編」角川書店
三浦佑之 1992 『昔話にみる悪と欲望』新曜社
巻町郷土資料館 1988 巻町郷土資料館 No. 10 『のぞきからくり』
丸山久子 1977a 「継母の化物」稲田浩二 [ほか] 編『日本昔話事典』 弘文堂
丸山久子 1977b 「継子の蛇責め」稲田浩二 [ほか] 編『日本昔話事典』 弘文堂
上田信道 1994 「永島永洲の児童文学 -冒険・探偵小説を中心に「国際児童文学館紀要」第9号


(*1) 昔話や実話以外に、印刷メディアに掲載されたフィクションとの関連を考えることも必要である。たとえば上田(1994)によれば、永島永洲は、継子いじめをモチーフとしたさまざまな児童文学を明治・大正期に発表しており、中でも、「プラツトホーム」(1906)は、幽霊を装って継子の命を縮めようとする点で、まさしく「幽霊の継子いじめ」の内容に適合する。
 逆に、明治・大正期の継子いじめ話の進化がその後の物語に及ぼした影響についても考察することができるかもしれない。たとえば、継母がみずからヘビに扮して継子をいじめる楳図かずおの「へびおばさん」は、「継母の化物」と「継子の蛇責め」を合体させた構造を持っており、「幽霊の継子いじめ」を想起させる内容である。



リンク集 | 歴史 | 見聞記 | TOP