あぜ道のあちこちから匂いがした。かえるさんはその匂いの名前を知っていた。知っていたが誰もいないので、声には出さなかった。声には出さなかったが、匂いは名前になって、名前は繰り返しになって、ひと跳びするごとに頭の中で鳴った。
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ヘルロードに出ると、匂いはかすかになった。匂いを探すようにかえるさんは早足で跳んだ。かすかな分だけ余計に名前が繰り返された。繰り返さないと忘れそうだった。頭の中はむせるような匂いになった。
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それだけ繰り返したのに、喫茶かえるに入ったとたん、名前を忘れてしまった。伊吹山がゆったりと霞んでいた。たくさん仕事をしたような気がして、かえるさんは気がぬけて水をひと口飲んだ。
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口の中に匂いが広がった。かえるさんはその匂いの名前を知っていた。マスターがカウンターからかえるさんの方を見ていた。かえるさんが何かを言おうとしたときマスターが先に口を開いた。「よもぎ水です」
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その名前は知ってたのに。マスターに言おうと思ったのに。思ったのにと頭の中で言った。声に出すかわりにかえるさんはぎゅっと口を結んだ。味が濃くなった。口を開くと、鼻から匂いが抜けた。そのとき、名前が頭にゆっくりと広がりはじめた。水を含んで、口を結んで開いて、また水を含んで、コップが空になった。名前が広がり続けている。マスターがおかわりを注ぎにやってきた。