エミル・コールは、メリエスやリュミエールよりも年長の1857年生まれで、ブラックトンの『愉快な百面相』や『幽霊ホテル』に影響を受けて最初のアニメーション『ファンタズマゴリー』を作ったときは、すでに51歳だった。にもかかわらず、それからフランスのゴーモン社でアニメーションをはじめさまざまな実験的映画を制作し、1921年にはその数は250を越えていた。彼の作品はアメリカでも流通し、かつて影響を受けたブラックトンに逆に影響を与え、マッケイのアニメーションにも何らかの影響を与えたと考えられている。
エミル・コール『ファンタズマゴリー』YouTube版
そればかりではない。コールは、1913年、アメリカのカートゥニスト、ジョージ・マクマヌス(彼はマッケイの友人であり、『恐竜ガーティー』の実写版にマッケイと夕食を賭ける役で出演している)の“The Newlyweds and their Baby”(『新婚さんと赤ちゃん』)をアニメーション化している。この仕事に関連して、コールは1913年から14年にかけて18週間にわたってアメリカに滞在する。
ところが不幸なことに、彼がフランスに帰国した直後、この作品の制作会社であったエクレア社のラボが火災に遭い、フィルムは灰燼に帰してしまった。このため、エミル・コールの記念すべきアメリカ時代の作品は現存していない。(以上の記述は“Before Mickey” pp81-84を参考にした)。
このような経歴を持つコールは、当然マッケイの新作にも興味を持っていたことだろう。以下の記事には、コールが帰国する直前にニューヨークで『恐竜ガーティー』を見た体験が簡単に記されている。(ドナルド・クラフトン『ミッキー以前』 からの重訳。元の記事はArnaud & Biosyvon, “Le Cinéma pour tous” pp.82-83.)
ウィンザー・マッケイの映画はどれもみごとに描かれていたが、その成功の鍵は観客への見せ方にあった。私(訳注:エミル・コール)が覚えているのはニューヨークはハマースタイン劇場での上映だ。実際のところ登場するのは、たった一匹の大昔の獣、ジュラ紀の巨大な恐竜だった。映画の最初には木々や岩が映されて、スクリーンの前、ステージ上にはウィンザー・マッケイが優雅に立っており、手には鞭を持ち、あたかもサーカスのリングマスターといった調子で口上を述べた。彼が呼ぶと、獣は岩陰から巨大な姿を現した。それからの進行は、あたかも馬術の練習のごとく画家によって常にコントロールされていた。獣は踊り、ターンし、木を飲み、岩を飲み、観客はこの作品と作品を生みだした画家に拍手を送り、獣は礼をして答えた。マッケイは儲かったにちがいなく、劇場を出る際に、キャッシャーで小切手を受けとることを忘れなかった。
(D. Crafton “Before Mickey” p.111)
クラフトンは、さらに、ディズニー社のアニメーターだったディック・ヒューマーの息子リチャードとマッケイの息子ロバートがこの上演の様子を再演した様子を以下のように記している。
リチャード・ヒューマーとロバート・ウィンザー・マッケイはこの上演をTV番組『ディズニーランド』で再演している。そこでは、マッケイがスクリーンに向かって右下に立ってガーティーの動きと彼の口上、しぐさとを合わせている様子が正確に再現されていた。たとえばマッケイがガーティーにご褒美としてリンゴを投げると、本物のリンゴはあたかもスクリーンの向こう側へと入り込んだように見えて、ガーティーはその大きな口でリンゴを食べた。最後は凱旋で、マッケイがスクリーンの裏側へと実を隠すや、ガーティーが彼を頭の上へとすくいあげる。そしていまや小さなアニメーションとなったウィンザー・マッケイはガーティーの背中に鞭をくれながら、ガーティーとともにスクリーンの外へと消えるのである。
( D. Crafton “Before Mickey” p.111, 細馬宏通訳 Nov. 3, 2010)
DVD“Winsor Mccay”などに収められている実写と字幕のついたバージョンは、マッケイが実演をしなくなった後にイントロダクションと字幕をつけた版で、最初の版とは異なっている。最近、アニメーション史研究者のS. Massaは、マッケイの実演を再現しており、この様子はYouTubeで見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=u-XGIA-lbf4