朝食を食べて外に出ると、北側の山はまるで巨大な壁のようだ。これまで泊まった中で、ここはいちばん山に近い。 まずは街の北にあるパノラマ館へ。ロトゥンダ(パノラマを収める円形の建物)は思ったより整っていて、天窓もあり、典型的なパノラマ館の形をしている。一昨日のザルツブルクに比べるとえらい違いだ。 入り口からまっすぐ廊下を進んでそのまま階段を上がる。らせん階段やくらがりはない。階段の下からすでに絵が見えている。このあたりはやや作りが甘い。 観覧台と天幕は、典型的なパノラマの形式を守っている。まず眼を奪われるのは、北側にあるインスブルックの山々だ。陽は西から当たっており、山の稜線が微細な陰を我が身に投げている。そして西に眼を移すと、手前の丘は陽を背に暗いシルエットになっており、針葉樹の一本一本の樹影が描きこまれている。樹影の向こうから西日に透ける空気が漂ってきそうなのは、向こうの山との遮蔽関係が奥行きを感じさせるからだ。 これら山の描写に比べて、南の戦闘場面はやや見劣りする。ひとつには、観覧台との距離に比べて人物がやや小さく描かれているせいだ。 場面は、1809年のナポレオン軍侵攻に対するチロルの第三回めの戦いを描いている。このときはチロルの勝利に終わるが、じつはこのあと、第四回の戦いではチロルは敗北し、軍を率いていたアルフレッド・ホッファーは捕らえられ処刑されることになる。第四回でなく第三回の場面が描かれているのは、チロルないしはオーストリア帝国の戦意高揚のためだろう。 チロルの英雄、ホッファーのいるあたりには、民衆を率いる神父、倒れた兵士にワインを差し出す女など、眼を引くさまざまな群衆劇が配されている。観覧台に銃口を向けているものまでいる。観客はさながらナポレオン軍だ。公開された19世紀末当時、チロルの人々はまず銃口を向けられる存在としてこの場に立ち、そして銃口を向ける者として絵の中に自分を置きたくなったことだろう。じっさい、公開時には、観覧台から飛び出して、絵のほうへ駆け降りた人までいたらしい。 観覧台と絵との間には針葉樹や大砲やライフルが配されていて、絵とオブジェの連続性は悪くない。崖のあたりは、ほとんど境目が感じられない。 絵は南北二つの焦点を持つ。東側はチロル軍とフランス軍の戦闘場面が続き、その崖下をイン川が流れていく。北側の山のふもとには、(デルフトの眺望よろしく)二つの教会に光が当てられ、その向こうは旧市街だ。 ドイツ語とイタリア語のできるスタッフがいて、団体客が来るたびに、この一連のできごとの口上を述べている。英語の場合はテープ。口上はおよそ15分ほど。 パノラマの調査をしているのだというと、館員の女性が、いまポーランドから届いたばかりのカタログを見せてくれる。ポーランド語は読めないが、図録から見てかなり充実したものであることは伺える。見入っていると、フロントデスクの下からごっそりパンフレットの入った箱を取り出して「ほら、あたしのミニ博物館よ」と、各国のパノラマ館のパンフレットを見せてくれる。その中で眼を引いたのは、Bad Frankensteinに1989年にできたパノラマの写真。コマンが悪趣味だとは書いていたが、これはすごい。ブリューゲル・ミーツ長岡秀星。旧東ドイツのプロパガンダのために作られたという話だが、写真を見るかぎり何のプロパガンダだか意味不明。重複しているパンフを分けてもらう。ダンケダンケダンケ。ビッテビッテビッテ。 インスブルックの絵が描かれたおおよその場所を聞き、そこへ行ってみることにする。1976年に開かれた冬季オリンピックのジャンプ台のあたりで、そばにはベルクイーゲンの歴史博物館がある。 もし、パノラマの描き手が、メスタグのようにガラス投射装置を使って一点から絵を描いたのだとすれば、細部の遮蔽関係は現実と一致するはずだ。そこでまず手がかりとなるのは、北正面に描かれた、二つの塔を持つ教会だ。この二本の塔の重なり具合が目印になる。丘を何度か登り降りしてみると、二本の塔がうまく重なるのは、ジャンプ台よりやや東にずれた、ベルクイーセルの銅像が立つあたり、もしくはその下の階段ということがわかる。 しかし、ここから描いたとなると、西の山々の遮蔽関係に矛盾が生じる。手前の丘が近すぎるので、絵に描かれているような谷あいが見えない。この谷あいは絵にとって重要な部分で、フランス軍の侵攻の道筋を示すとともに、そこから洩れてくる西の陽射しがもたらす空気感が、絵の奥行きを豊かなものにしている。 では、この谷あいはどこから見て描かれたものか。丘を下りていくと、どうやらそれはふもとの教会のほぼ正面から見える遮蔽関係ではないかということがわかる。西の向こう側の山の稜線の範囲は、ほぼこの位置から見えるものと等しい。ただし、手前の丘は、絵よりも大きく見える。 これは南側の山に関しても言えることで、山の稜線は、丘の上からよりも教会の前からのものに近い。 つまり、画家は少なくとも、複数の視点からのスケッチを重ね合わせ、それを360度につなぎ合わせたということになる。そしてその複数の視点の中のひとつに、教会からの光景があった。 人々は絵を見るとき、自分が知っている山の稜線、遠い町を望むことのできる稜線をそこに見出す。それは戦闘のあった場所から見える光景ではない。祈りを終えて外に出たときに見える光景、教会の前から見える光景だ。 絵は、異なる視点から見た稜線をつなぐことで、見る者の記憶を綴り合わせ、一つの非現実の場所を紡ぎだす。聖なる教会は、単なる風景の一部として描きこまれただけでなく、そこから見た風景をも織り込んで描かれた。つまり、まなざされることとまなざすことが、このパノラマではひとつながりになっている。 町に戻り、Hofburugへ。ここもマリア・テレジアが建てた宮廷で、部屋の状況が再現されている。しかし、古びたロココ調って、首の取れた人形みたいな殺伐とした怨念を感じるな。 すぐそばのチロル民俗博物館へ。教会の跡地を利用している。中で収穫だったのは、クリスマスのために作るKibsの特別展。これは、今風のジオラマで、主にキリストの生誕の場面が、小さな人形と背景によって作り出されている。18世紀から19世紀初頭のものに、紙を切り貼りした覗き絵風のものが多いのが興味深い。18、19世紀の覗き絵から人形劇風のジオラマに至る流れは、チロルではこんな形で存在したのだ。Einseldenのジオラマも、このチロルのKibsと同系統のものだといえる。 ちなみに、ジオラマとは、もともとは人形やオブジェを配するものではなく、一枚の絵を見せるものだった。19世紀にダゲール(「ダゲレオタイプ」のダゲール)が発明したジオラマは、絵に穴を開けたり透かしを入れて、光の当て方を変えることで、全く違う光景を見せるものだった。たとえば、表から通常の光を当てると、そこには昼の風景が描かれており、表を暗くして裏から光を当てると、そこには夜の風景が描かれている、といった具合だ。つまり、ジオラマとは、当初は、光によって異なる時間の光景を見せるものを指した。人形を配するというテクニックは後から導入されたものに過ぎない。ところが、時代が過ぎるとともに、いつしか光を変化させるという要素は薄くなり、いまでは光の変化のあるなしに関らず、小さな人形をあちこちに配した風景をジオラマと呼ぶようになった。ちょっとややこしい。 鐘の博物館に行き、陽も暮れかかってきたのでレストランのテラスでビールを飲んでいると、雨の気配。 雨の過ぎるのを待って表に出ると、虹が二重にかかっている。ちょうど山間を白い雲が過ぎるところで、虹の根元ははっきりと、その山間からでている。天頂に近づくに従って虹は雲にまぎれる。雲の濃さによって、スペクトルの明度が変わるので、あらゆる色がそこには含まれている。それを見ようと振り返っては、すれ違う人と笑いあうことになる。 陽が落ちてからミュンヘンへ。前と同じ宿。この前と違って、五人部屋をあてがわれていた。むかしの応接間なのか、豪勢な作り。 |