江戸川乱歩「活弁志願記」(昭和二六年)より



 朝起きると手拭いを下げて家を出た。そして、隅田川を越して浅草公園に入り各所の銭湯、各所の一膳めし屋、各館の映画、時には昼間の講釈、時には江川の玉乗りと、毎日そんなことで過していた。
 浅草公園の隅々を研究し、ルンペンの悲しさと懐かしさを身をもって味わった。まだ十二階があり、時々その頂上にのぼって、品川の海をボンヤリ眺めることもあったが、十二階下の売笑街へは入らなかった。そういうぜいたくをするほどの費用を持たなかったからである。又、私は酒が飲めなかった。だから、二十四歳ではあったが、実に子供子供したルンペンであった。
 (引用は『江戸川乱歩全集22』講談社/昭和五四年から)
 

 乱歩が会社員をしくじって、無一文で東京に流れ着いた頃の回想。本所の大工さんの二回に間借りをしていた乱歩は、衣類などを売りながら一日五、六十銭で暮らしていた。
 「押絵と旅する男」には十二階内部の様子や階上からの眺めが書かれているが、この回想からそれは乱歩の実体験に基づくものであったことが伺い知れる。当時、すなわち大正七、八年頃は、十二階はどちらかというと演芸場でもっていた頃で、おそらく塔上はさほど人気がなかっただろう。「昼間の講釈」とあるのは金車亭のことであろうか。
 浅草公園について乱歩が書いた文章として文庫本などによく収録されているのは、「浅草趣味」(『新青年』昭和二年)で、そちらにも大正から昭和にかけての公園内の点景が描かれている。

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