十二階の下に切妻屋根の門があって、奥になにやら建物が見える。これは明治末期にできた「十二階演芸場」だ。ここではこの建物を手がかりに、さらに時代をしぼりこんでみよう。
十二階の下に演芸場ができたのは明治四四年六月一日のことだ。これは都新聞の広告がこの日から打たれていることからわかる。また、後に書かれた 記事(都、大正二・九・二〇〜二四)から、それは「簡単な小屋掛け」だったこともわかる。
さらに新聞記事を追っていくと、十二階演芸場では明治天皇崩御の喪の期間を利用して改築が行われ、九月に落成式が行われていることもわかる(読売、明治四五・九・二八)。
ここで、もう一枚の絵葉書を見てみよう。上の絵葉書とほとんど同じ景色に見えるが、十二階演芸場の部分が、木製の門だけになっていて、奥ができていないことがわかる。「演芸場 観覧席」などの看板が見えることから、これは普請中ではなく、おそらくこの状態で営業されていたこともわかる。
以上のことから、絵葉書[3]の演芸場は、絵葉書[1]の前身であると考えられる。したがって、先の考察と合わせると、絵葉書[1]の年代は、明治四五年九月以降、大正二年五月以前、と推測できる。いっぽう絵葉書[3]の年代は、浅草国技館と旧式の十二階演芸場があることから、明治四五年二月以降、明治四五年九月以前とわかる。
つまり、絵葉書[3]は、国技館ができて間もない時期に撮影されていることになる。これで、「浅草公園十二階及国技館」と、タイトルに国技館の名前がわざわざ挙がっている理由も分かる。開館したばかりの国技館をフィーチャーする意味で作成された絵葉書、ということなのだろう。