金子光晴『十二階下の女たち』(昭和二九年)より



 関東大震災の日までは、浅草公園の一角に、すっぽん蕈(だけ)のようなものが立っていた。
 それが有名な十二階で、煉瓦造り、まるで燈台をのぼってゆくように、ラセン階段でのぼってゆくようになっていた。
 のぼってゆく階段の壁には、吉原娼妓の写真額が竝べてあって、それをみながらゆくことによって、足の疲れを忘れるという趣向だった。十二階塔上には、遠眼鏡屋のあばさんがいて、塔上から市中をみわたす人たちに眼鏡をかしてくれた。眼鏡のかり賃は二銭だったかと記憶する。
 風のある日の塔上は、ぎいぎっと揺れて安定感がない。いつかは崩れるという予想があったが、震災の時果して、中途からくずれた。

(中略)

 十二階の三階の窓から裏の方をみると、銘酒屋や、新聞縦覧所の軒燈が、狭い横丁におしくらしていた。「亀遊」とか、「房遊亭」とか、えげつない屋号が見下されたが、それらの家は、震災で、煉瓦の山に埋まってしまった。

(中略)

 十二階はその狭い迷路のどこからでも、ふりあおぐことができたが、十一の階段をあくせくのぼらなくてもいいように、中頃からエレベーターが出来た。娼妓の写真もなくなり、中途の階段から、銘酒屋の小部屋をのぞこうと、肝胆を砕く閑人もなくなった。十二階をそえものにして、十二階劇場が出来、梅坊主のかっぽれなどがかかっていた。

(「金子光晴全集第十五巻」中央公論社より)




 金子光晴は十七のときに友人の叔母の家につれていかれ、「お前さんたち、夜は来るんじゃないよ。学問のためにならないからね」と釘をさされながらも、以後頻繁に十二階下に立ち寄った。『十二階下の女たち』はその当時に出会った女たちについて書いたエッセイで、銘酒屋街の空気を親しく伝えている。
 銘酒屋の最盛期は明治四十年代、十二階劇場ができて梅坊主のかっぽれがかかり出したのは明治四四年。エレベーターができたのは大正三年のこと。
 エレベーターが出来る前は「中途の階段から、銘酒屋の小部屋をのぞこうと、肝胆を砕く閑人」がいたらしい。ちなみにこのエレベーターは、開館当時(明治二三年)に設置されたものとは別物である。
 全集にはこのほかのエッセイや対談にも、十二階にふれたものが収められている。そしてもちろん、詩集「路傍の愛人」の『浅草十二階』も。(2001. 06.02)

 

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