万国実体写真協会「浅草公園」(明治三十七、八年ごろ)




 ひょうたん池南東の端から撮影されたもの。十二階の横には大盛館、清遊館の入母屋屋根が並んでいる。

 カタログで見たときはよくある絵葉書風の構図だと思っていたが、手元のブリュースター型ヴュワーで覗いてみると、いくつもの驚きがあった。たとえば中之島に立つ電燈の向こうに、「中将姫」が顔を出しているがはっきりわかる。単眼では、電燈の柱や木々にまぎれているが、両眼で見ると奥行きによって明らかに区別される。
 そして、その看板のとんでもない大きさ。これまた、両眼で見なければ「大きい」とは解らない。距離が計れないからだ。ものの大きさは、奥行きがつくことで明らかになる。人の視覚はまさに「大きさの恒常性」に囚われている。




 池に映った塔は、頂上あたりで散り散りになっている。眼をこらして見ると、反映の足下は池の向こうに透けるように映っているのだが、波で散らされたあたりは塔の奥行きが水面に捉えられている。
 こうした現実離れした奥行き感のディティールは、コロタイプ写真の分解能を存分に拡大して初めて理解できる。JPEG画像を裸眼立体視しただけではちょっと伝わりにくいかもしれない。

 正岡子規や萩原朔太郎が夜な夜な立体写真を覗いた理由、あるいはジャック・フィニィ「ふりだしに戻る」の主人公がヴュワーを観ながらタイムスリップ感を味わってしまう理由は、ヴュワーを覗いたとたんに明らかになる。

 伊藤俊治は「ジオラマ論」で、「立体写真の強烈な魅力は赤と青のセロファンを張った簡易の紙眼鏡などではなく、大型の双眼写真鏡で実際に二枚一組になった写真板を覗いて見、その不思議な映像感覚に入りこむまでは決して理解できないだろう。」と書いている。この点、全く同感だ。

  2002 May 4

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