古川真治「十二階暮色」(静書房、昭和二二年)より



 秋嶺は枕許の煙草をうまさうに一服吸つておいて、窓際に額縁に入れたやうにはつきり浮んでみえる十二階を指した。
 十二階凌雲閣は長方形の蒼空の中に、夏の雲のやうに動かぬ綿雲を三つ四つ周圍につけて聳えてゐた。昨日の冷たい雨に、ひきずつてゐた冬の翳(かざし)をすつかり洗ひ落し雷遊のうたひ文句ではないけれど春や春。もつとも今日は三月の半である。
 『君、「これやこのピサの斜塔にあらねども、凌雲閣は懐かしき哉」て、歌を知つてゐるかい』
 秋嶺が突然そんな事を言ひ出す。
 『知りません』
 『たいした句ぢやないけど、ピサの斜塔を引張り出したのは嬉しいね。もつとも僕だつて絵葉書で見ただけど・・・・・・』
 『さあ』
 雛太郎は顔を赧らめて考へこんでしまふ。やがてそれを悲しさうな表情にかへ、
 『・・・・・・あたし、秋嶺さんのやうに学問が無い。読む物と言つたら師匠に渡される抜き書位のものですもの』
 『僕はそんなつもりで言つたのぢや無いよ。ピサの斜塔にあらねども、といふのだから十二階つて曲がつてゐるのかしらと思つて訊いたのだ』
 『八階から上が曲つてゐるといふ噂をきゝました。曲つてゐても、お金がかゝるから直せないのださうです』
 『ふーん、八階から上が曲つてゐるのかい。と、言はれると少し左へへんかな』
 秋嶺は目を細めてから凌雲閣をみる。夏のやうな雲はまだ動かない。



国会図書館で「十二階」を検索して最初に読んだ本。大正時代の浅草の活動弁士の生態や抗争を描いたものなのだが、昭和二二年という時代に発表されたという点で、何か二重に失われている感じがする。古川真治は大衆小説家で、戦後にいくつか小説を出しているが詳しいプロフィールは不明。(2001. 05.29)

 「浅草の女たち」(昭和一六年、文学書房)の市橋一宏の解説によれば、古川真治は番町の生まれで、カジノフォーリー時代は番伸一というペンネームで時代小説を書いていた。(2002 01.14)

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