大正館には星製薬のポスターも
電力関係のところに錦絵が載ってました。
以下のページが直リンク。
何度もペーストしてしまってすみません
電通がこんなことやってたんですね。
十二階関連のものも見つかるかな?
↓
ところで、12kai.comはyahooにカテゴリ登録してあるのですが、それは
「日本の地方 > 関東 > 東京都 > 芸術と人文 > 歴史 > 遺跡・旧跡」
だったりします。ううむ、遺跡・旧跡かあ。旧跡といえなくもないですが。
以前、yahooのピックアップに取り上げてもらったので、そこからたどって来られてる
方もけっこういる模様。
どこにトリガーがあるかわからないとスリルあるでしょうねー。
膝を逆に曲げると一生でいちばんヤなできごとが!とか。
今日、鉱石ラジオ(オトナの科学)いじってたんですけど、
石を針で触って音を探すあの感じ、ちょっと感覚トリガーでした。
鼻の頭を綿棒で掻いたら一年前のあのできごとが!(もうええっちゅうに)
記憶にキーワード検索。
トリガーが感覚だと、かなりだめ人間ぶり発揮できそうで、たのしそう。
腕時計の時間を見るだけで、検索開始!
・・・全然、便利ぢゃない。と、関係ありませんが、(12階にも)個人サイト・リニューアルに伴い
the beachにリンク張りました。
と、事後報告。
便利だけどちょっとつまんないかも?
記憶が全部、紅茶にひたしたマドレーヌで呼び出せたら
「失われた時を求めて」は一行で終わってたハズ、なんちて。
ホソマさん<
そのデジャブって日記に書いてあったこの話じゃなくて?うーむ、なんか、コバナシっぽいやつだったような気もするし。
記憶にも、キーワード検索や絞り込み我出きればよいのにと思う今日この頃。
でんきやさんよりお送りしてます。
トップページを十二階にしてきました。地道に宣伝してます。KHさん<
むかし、10年ぶりくらいに話題になった人のことを
「なつかしー」とかいったら、本人に伝わって「アノヤロー」
といわれたことでした。誰かにとっては誰かは死に体だよね。
あの人に私が生き返ってよかったです。
知る人ぞ知る画伯、クルミザワ氏を新宿ABCに引っ張っていって、
平積みの「浅草十二階」を指差しました。その前に南口の紀伊国屋で
二人して買い物したので、その場ではクルミザワ氏は手を出しませんでしたが、
手にとって、「ああ、生きてたんだ、細馬くん!」と感嘆の声を(笑)さらにメディアイクエージョンの平積みのところに連れて行って
「仕事してまっせ、細馬さんは」と私が言うと、クルミザワ画伯、「・・・・」画伯いわく「今は充電期間だから」ということで。
でもこっそり二人でいたずらの計画をたてちゃいました。
とっても地味な宣伝活動報告でした。
enoさん<
どうも。日経見ました。軽い紹介って感じですね。評者の苦労が忍ばれる。
KHさん<
サクラ大戦の作者の広井王子氏は確か浅草出身ですよね。凌雲閣の3Dデータが
もしかするとセガにはあるのか?
大阪人さん<
なぜ浅草の塔が同じ「凌雲閣」という名前になったのか、詳しいいきさつは
わかっていません。少なくとも大阪の南の五階(眺望閣)、北の九階(凌雲閣)
といった高塔ブームが東京に伝わっていたことは確かです。
まあさん<
エッフェル塔試論に収められているエレベーターの銅版画、十二階のものと
わりと似てますね。この時代、外国雑誌の挿絵を転用したり模写している図像が
ときどきあるのですが、もしかして、十二階のエレベーター図、
このエッフェル塔のエレベーター図を引用したのか?と思えなくもない。
十階付近には建物にいろいろ不連続なところがあって、興味をそそります。
そうそう、あの白い煉瓦、あれが使われたいきさつもまだ決定的な文献を
見つけかねています。
八階までは各階の高さが一ニ.五尺なのに、九階は十五尺、十階は十六尺という
あたりにも、なにか理由でもあったのかと疑いたくなる破調があります。森銑三の「明治東京逸聞史」はなんとも言えずよい編集加減の本で、
外骨のかかわった「新聞集成明治編年史」同様、折りに触れ開いてしまいます。
ちょっと、ご無沙汰してます。 「まあ」です。
せんだいメディアテークの中の図書館にも「浅草十二階」が入庫していました。
読むとただ突っ立っていただけの塔でないことがわかるでしょう。「学天則」の件
そういえばこの間の「知ってるつもり」でも西村真琴さんの
特集で出てました。出だしに「帝都物語」の中の震災で十二階が
倒壊するシーンとかが出てました。
(十二階劇場は見えなかったような...)最近ソニーのアイボやホンダのasimoなどが出てきて、人に手助けをする
ロボットの出現が現実味を帯びてきているひとつの表れでしょうか?
「大阪の凌雲閣」の件
取り上げられている本をいくつか(いずれもほんの一部ですが)
●林丈二「明治がらくた博覧会」(晶文社)には明治22年、大阪北野茶屋町に九階が
できたことを九階の絵が描かれた絵皿とともに紹介されています。
●図説日本の歴史(27)大阪の歴史(河出書房新社)
では1889年4月5日にできたと書いています。
●大阪市の歴史 大阪市史編纂所編(創元社)では
五角形(1,2階)と八角すい台(3〜8階)の上に丸屋根の展望台という
説明があります。(かなり強引な設計なように素人目にも見えますが。)ちなみに1903年に大阪で開催の博覧会では今で言う大林組が作ったエレベーターの
ある観覧塔が作られている(高さ45m)。明治東京逸聞史1の中で明治30年の風俗画報の増刊新選東京名所図会の浅草公園の部には
十二階が今また水力式エレベートルの敷設を計画しているという記事があります。そういえば「エッフェル塔試論」という本の中にはエレベーターについての記述があり
高層建築物の建造には安全性の高いエレベーターの開発が欠かせなかったという話もあります。
エレベーターを建物内の輸送機関として認める上ではオーチスの安全実験はやはり重要だった
ようです。
(エッフェル塔のエレベーターは今でこそ電気式ですがかなり最近までは水力式だったそうで
水力式が故、気温が氷点下になったときなどはエレベーターの運転を一時停止したという話が
あります。(←本「エッフェル塔ものがたり」より))この本のエレベーターに関する項の前後にはエレベーターの挿絵があり、「2階〜3階部分」の
絵は一瞬見ると十二階のエレベーターの簡略図(二つの籠が並んで中に人がいる絵)のようです。
(実際には右のかごから左のかごに人が移っている絵なのですが。)凌雲閣ははどうして最初十階建てだったのが建設中に十二階建てに変更になったのか?
やはりエレベーターの設置がカギになっているような気はします。もともと大阪の北の九階を意識した十階建ての建物だったのだが。
→エレベーターの設置によって閣内のテナントのスペースが減った。
→既に建物を建設中だった。
→エレベーターがあるので建物を高くしても客に不便は与えないだろう。
→増設する建物は重量と一度に展望できる人数を考慮し煉瓦でなく木造2階の小屋を載せる。もしかするとこの無理やりとも言える設計の変更がいろいろと外観の変更や
問題を引き起こすことになるのかもしれません。
たとえば...
●10階だけはどうして白煉瓦で覆われているのか?
(実は10階の建物の装飾を隠すためだったとか)
●改革直後雨漏りする話があるが、煉瓦と木材の境目のところから雨漏りがするように
なったのでは? (いくらパテで固めていても木材は水分で伸縮する)
●エレベーターは本来エレベーターの寸法に合わせて建物を設計するのが基本だが
後から取り付けたことによりエレベーターのレールの変形などで動作に支障が
出たのでは? とか(エレベーターが「木製」という点、そしてエレベーター技師の
名前が出てこない点で実はそれ以前の話なのかもしれない。 )これらはいずれも推論の範囲でしかないのですが...
結局、エレベーターが半年程度で運転を停止され、マラソンの給水所のごとく
階の途中で甘酒を配る人が出てくるわけです。
細馬さま、ありがとうございました!今日、日経に細馬さまのご本の紹介が載っていました。
さっそく読ませていただきます。。。
それにしても、大阪の方が先だったなんて〜!!信じられません。どうして同じ名前なんでしょう?
あ。たぶんお書きになってますね。本当にありがとうございました!
ただいま、「サクラ大戦」に登場する十二階の情報を収集中。
運がよければ近日中に報告できます。
今日の日経新聞に書評出てました。
ご祝儀で画像アップ。
きのうの「世界ふしぎ発見」でやってました。
番組内容がこちらの考えてたストーリーにかなり近くて
「やられた」って感じですが、しぶとくがんばります。
「芸術新潮」もからくり人形からロボットに至る特集。
今日、「それなら大阪市立博物館でみたことがある」という話を聞きました。
・・・と思ったら、あら、検索でも見つかりました。
大阪凌雲閣が建ったのは明治二十二年三月で、浅草十二階は明治二十三年十一月、
というわけで、時期からいうと、大阪のほうが元祖ということになります。
拙著「浅草十二階」の最初の方に、大阪凌雲閣の話を少し書いています。
いわゆる「北の九階」と呼ばれていた塔ですね。当時茶屋町あたりは
菜の花の名所で、春の花見がてら塔見物という趣向だったようです。
この塔については、橋爪紳也氏の「明治の迷宮都市」(平凡社)
にも図入りで解説されています。
こちらは浅草の凌雲閣のとこだって知ってるんですけど。。。
その昔、浅草の十二階を真似て、大阪の茶屋町付近にも「凌雲閣」ってのが
あったそうなんです〜。。。どなたかくわしくご存じありませんか??
今の茶屋町付近は、聞くところによると、大阪大空襲で焼け野原になったそうで、その後は
バラックなどが建ち並び、最近(といってもここ15年くらい?)に開けてきたので、
そこらを歩き回ってもろくな建物も遺跡もなーんにもないんですよねー。
なんか、そのことについて良い参考図書などがないかなあって思っているのですが。
よろしくお願いいたします〜!