若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)
「『ロリータ』を読むための実用書を目指したもの」が本書であるという。難解で知られるナボコフの『ロリータ』を、新訳を手がけた著者自身が精密に解説する。これは襟を正して読まねばらならない。
などと、柄にもなく身構えて読み始めたわたしの気をそらすかのように、著者はなぜか『ロリータ』ではなく、ナボコフの『アンナ・カレーニナ』講義の話を始める。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』に書かれたさりげない描写の中から、ナボコフはマフの毛皮の上に落ちる「霜の針」の存在を拾い上げる。それは、普通の人なら見逃してしまうような、些細な記述に過ぎない。しかし小説には、「霜の針」のように、繊細な冷たさによってのみ触れることのできるしるしが落ちており、ナボコフをはじめ良き小説読みたちは、こうしたしるしを記憶の指標とする。そして、小説における「霜の針」を、著者は、ナボコフのように「愛おしい手つきでそっと拾い上げたい」と、書く。
あたかもロシアの冬の日を散歩するようなこの序文によって、わたしはすっかり武装解除させられた。
じっさい本書を読むのに、肩肘の張った理論武装はいらない。主として取り上げられるのは、『ロリータ』のわずか数ページの部分に過ぎない。もちろん、そこはアメリカ文化にも造詣の深い著者のことだから、話題は次第に、『ロリータ』の他の部分やナボコフの他の小説へと、さらには映画、広告、ポップス史などへと分岐していくのだが、予備知識はさほど必要なく、著者の道案内にまかせて読み進めればよい。
それに、本書には難しい批評理論はまったく現れない。用いられる手法はただひとつ、『ロリータ』のいたるところに埋め込まれた「霜の針」のような手がかりを、できるかぎり丁寧に拾い上げていくことだ。
ナボコフの小説は、あたかも詰め将棋やチェスのプロブレムのように「すべて主題あるいは狙いを持って」書かれており、小説上に配置されたことばは、細部に渡って、あたかも盤上に配置されている駒のように、すべて何らかの必然性を持っている。だから、わずか数ページの部分を検討するだけで、拾い上げられる手がかりは膨大な量になる。
ナボコフの配置するさりげない言い回し、固有名詞、綴りの類似性は、やがて微かな違和感と既視感をもたらし、読者の記憶にミスディレクションを仕掛け、語り手のいる場所と時間を幾重にもずらせていく。著者はそのひとつひとつを分析しながら、仕掛けられた手がかりが、一読によってすぐに明らかになるのではなく、むしろ再読を重ねることでゆっくりと浮かび上がってくることを示す。精読を強いるかわりに、再読へと誘う。
徹底して行き届いた分析を読み進めながら、ふと顔をあげると、世界の感じられ方が、いつもと違う。身の回りのさまざまな事物のディティールが、何かを思い出すための手がかりであるかのように、ささやかな合図を送ってくる。まるで著者の(そしてナボコフの)「拾い上げ」の手つきに感染してしまったような、不思議な感じだ。
かつて著者が『乱視読者の帰還』(みすず書房)の中で、『セバスチャン・ナイト』を読んだあとの感覚を「世界がゆっくりとナボコフ色に染まっていく」と書いていたのを思い出した。もしかすると、この感じが、そうなのだろうか。
(評:細馬宏通「東京人」2008年2月号 p150)