テックス・エイヴリーという「幕」




細馬宏通

 ぼくは「トムとジェリー」をTVではじめて観た世代だ。長いこと「トムとジェリー」は全部、TVのために作られたものだと思ってたし、「サザエさん」みたいに3話で1セットだと思ってた。その3話1セットのまんなかの話に、なぜかトムとジェリーじゃなくて、眠れないクマとか妙にゆっくりしゃべる犬が出てくる話があったはずなのだが、なにせ子供のときのことで、とんと覚えていない。
 それから何年も経ち、いい大人になってからのこと、偶然入った喫茶店のTVでかかっていた「トムとジェリー」に目が行った。みるみるのめりこんでいく自分に気がついた。なんだこれは。
 それがきっかけで、ベティ・ブープ、バッグス・バニー、フェリックス・ザ・キャット、時代も制作会社もてんでばらばらに詰め込まれたカートゥーン番組をむさぼるように観始めた。「まんなかの話」に再会したのはその頃だ。観る者の期待を裏切る絶妙のタイミング、ロードランナーよりもスーパーマンよりもめくるめく展開。なんだこれは。
 必ずそこにクレジットされている監督の名は「Tex Avery」テックス・エイヴリーって誰だ。やがて、彼の作品を集めたLDボックスがアメリカで発売されているのを知り、個人輸入して一気に観てあとはオボロ。ぺらぺらの夢でうなされるような、その夢から引き剥がされて悪い現実に連れ戻されそうな、だからこそ夢よりも深い眠りに逃げようとしてまたまた浅い夢に引き戻されるような、夢の夢でクタクタの、そう、ちょうど、いま映画を見終ったあなたのような状態が、何日も続くハメになったのだ。え、まだ観てない?そんなあなたはここから映画にジャンプ!
 観ましたか?クタクタになりましたか。ぼくもなりました。TVモニタで飽きるほど見直して、じゅうぶんに免疫ができているつもりでしたが大甘でした。やっぱり映画館だよテックスは。パースペクティブの歪んだ強引な空間移動、大スクリーンで観るとその効果のすさまじいこと。『ドルーピー/つかまるのはごめん』で、その歪みまくった空間にさんざ振り回された後、ドルーピーと狼がマンホールに入って目だけになったときなど、彼らと一緒に映画館という同じ穴に陥ったような、親密すぎる気分が爪先から立ち上がってきて、しかもその感覚をもたらしたのが、ただの黒い背景だということに気づいて、思わずトリハダが立ったことでした。
 
 そう、テックスはただの幕だ。幾重にも風景を重ねてかわいい生き物をあちこちに遊ばせ、管弦の美しい響きとともに銀幕の奥へ奥へと誘う、そんな甘いアニメーションのスタイルはコテンパンにぶちのめされ、映画は目の前でただの幕になって垂れ下がる。そのただの銀幕の前で、ぼくはしびれ、トリハダを立てている。
 
 たとえば『人の悪いリス』の冒頭はどうでしょう。
 森です。音楽です。うっとりするようなメンデルスゾーンの「春の歌」。木立の向こうに木立が見え隠れ、その木立の間を小鳥さんたちが飛び交っています。アニメーションが好きな人ならご存じでしょう。そう、マルチプレーン。幾重も画面を重ねて奥行きをつけるこの「マルチプレーン」方式は『水車小屋のシンフォニー』以来、ディズニーの得意技でした。手前の木立は速く、向こうの景色はゆっくりと流れます。まるで幕の向こうの夢の世界に誘われるようですね。日本では『家なき子』などがこの手法をうまく使っていました。
 『人の悪いリス』が映画館でかかったのは、『白雪姫』や『ピノキオ』が大ヒットした頃。ディズニーはマルチでプレーンな美しい音楽とかわいいなかまがいっぱい登場するファンタジックな映像をどんどん作っていました。MGMを含む他の会社も、さかんにそういうスタイルを真似ていたのです。ですから、当時の人たちは、この冒頭の森のシーンを見ただけで、ああ、あの砂糖菓子のような世界が始まるよ、と甘い予感に心躍らせたに違いありません。もちろん、主人公はリスのサミー・・・
 なわけがない。マルチでプレーンでクラシックな世界はあっという間にお払い箱だ。しっぽを抱いて媚を売るサミーをとっとと片づけて、さあ、スクリューボールな狂暴リスの世界だ。音楽がビートを取り戻す。映画はリスのビートに右往左往するただの絵になる。木のうろはひょいと動かせるし、犬の顔はハエとり紙ではがせる。(線路の上に置かれた木が、根っこのないただの絵に描いた木だって気づきました?) 手前は速く、向こうはゆっくり、なんてかったるい遠近法はテックスの世界じゃ通用しない。梢の先の先、世界の果ての果てまであっという間にたどりつくご都合主義。次のシーンがわからなけりゃ、この映画はめくったっていい。
 銀幕の裏で鳴らされている音も映画の餌食だ。おっかけっこの定番ウィリアム・テルは、スクリーンごと針飛びし、幕の上でただのレコードと化す。ドラムロールにシンバルにスライドホイッスルに鳥笛、音効さん御用達のスラップスティック音具の数々も、リスの手に落ちて使い放題だ。

 『人の悪いリス』だけではない。テックスは狂暴リスのように自虐と他虐の限りをつくす。観客をぶん殴り映画スターの顔にヒゲを描き、セブン・ミニッツで地球を駆けめぐり月に飛び宇宙サイズに拡大し、あらゆるものをスクリーンという幕の上に引きずり出してみせる。ぼくは、目の前で起っていることが、一枚幕に映写されているただの絵にすぎないと知りながら、幕に振り回され、まるで『ねむいうさぎ狩り』のポインター犬のように、映画館という夢とうつつとの間でうなされている。
 テックスの映画は文字どおり、スクリーン・ホラー(幕の恐怖)だ。絵に描いた海で船酔いしている犬とリス、それは観客であるぼくの姿にほかならない。

1999.07.31

 『テックス・エイヴリー 笑いのテロリスト』(ユーロスペース)上映パンフレットより



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