カンザス・シティ・キティ


州のステレオタイプ

 アメリカの州や都市のイメージ、というのはドラマやカートゥーンによく出てくるが、よそ者にはちょっとわかりにくい。たとえば以前、通販CMの番組で「疑い深いミズーリ州出身」の男が相手の商品に疑問を投げるというやりとりを見かけたが、この「疑い深いミズーリ野郎」な感じも、行ったことがないと、なんだかピンとこない。
 さらにそのミズーリの川を下ったカンザス州というのがまた分からない。ニューヨークとかサンフランシスコとかボストンとかシカゴとか、はたまたテキサスとかアリゾナとかフロリダとかならまだしも、よほどの偶然がなければミズーリやカンザスには行かない。
 カートゥーン好きにとっては、カンザス・シティは、ディズニーがアニメーションを作り始めた場所であり、カール・ストーリングが伴奏音楽家をやっていた場所であり、アブ・アイワークスの出身地でもあり、つまりはディズニー・コネクション発祥地にあたるのだが、これは一般市民の感覚とはちょっとずれているかもしれない。いったいカンザスってアメリカ人一般にとってどういうイメージを持つ場所なんだろう?

 マーク・ピーターセン「続・日本人の英語」(岩波新書)を読んでたら、このカンザスのイメージを的確に伝えるくだりがあった。

 『オズの魔法使い』に、家のドアから出て色つきの世界に感じ入ったドロシーが「トートー、ここはカンザスじゃないみたいよ」と言うセリフがある。ピーターセンがかつて(おそらく60年代末くらいに)コロラド大学でこの映画を見たときには、このセリフに対して「いきなり観客が拍手したり、歓声をあげたり、口笛を吹いたり、馬鹿に騒いでいた」という。
 この反応を理解するには二つの背景を知っておく必要がある。
 ひとつは60年代末がドラッグ・カルチャー華やかなり頃だったということ。モノクロで始まった映画が、テクニカラー独特の鮮やかな色彩を得るシーンは、その後に続くマンチキンランドのサイケデリックさも含めて、ドラッグ・カルチャーを愛する人にはさぞかしぐっと来たはずだ。
 もうひとつは、カンザスのパブリック・イメージ。ピーターセンのことばを借りれば、「カンザスは、アメリカの真ん中にある。まったく平坦な、木さえ少ない単調な風景に、小麦とトウモロコシの畑しか思い浮かばない田舎である。これは偏見だけれども、ニューヨークやハリウッドの人たちにとっていわゆる『なにもないところ』なので、カンザスのことは『平凡中の平凡』のたとえとして芝居や映画によく登場する」。
 これら二つの背景が重なると、「ここはカンザスじゃないみたいよ」とは「ドラッグによる意識変化で、オトナが勝手につくったリアリティ(モノクロのカンザス)から、別のリアリティへと逃避できた」という意味を帯びてくる、というわけだ。


田舎者ベティ・ブープ

 この「ここはカンザスじゃないみたいよ」の話を読んでいて、フライシャーの「Kitty from Kansas City」というカートゥーンを思い出した。
 「Kitty...」は、ベティ・ブープと有名歌手が登場する小唄映画(song cartoon)のひとつ。
 カンザス・シティ駅にトランクをさげてやってきたベティ・ブープがやってくる(この、わずかな歩数で背景が矢のように飛ぶ冒頭が、のっけからフライシャー的で楽しい)。駅員としばしやりとりがあった後、シュールな動きをする郵便車(mail)ならぬ婦人車(femail)でベティは「ルディ谷」駅に運ばれる。そこには、すると軽快なピアノとともにルディ・ヴァレーの歌声が聞こえてくる。ホームにはルディ・ヴァレー本人がいて、バウンシング・ボールに合わせて歌を続ける、というもの。
 歌詞の内容はじつに他愛がない。アメリカ全土、州から州へと旅をして、いろんな娘に会ったけど、なんといってもいちばんは、ミズーリ川を下ったあの町のあの娘。その娘はキティ、生まれはカンザス・シティ。おまぬけだけどかわいい娘。なんと、アインシュタインのことをein stein(一杯のビール)だと思ってる。ムッソリーニを体操の一種だと思ってる。マッシュルームを愛し合う部屋だと思ってる。愛してる愛してる、なんて気安い娘なんだ、彼女はぼくのカンザス・シティ・キティ・・・てな具合に、なんということもないダジャレとともに、カンザス娘の純朴さ(というか田舎者ぶり)が歌われていく。
 この歌詞の内容に「カンザスは、アメリカの真ん中にある。まったく平坦な、木さえ少ない単調な風景に、小麦とトウモロコシの畑しか思い浮かばない田舎である。」というステレオタイプなイメージを重ねると、なるほど「from Kansas City」とはこういうことかとナットクがいく。
 後に都会的な雰囲気を身につけるベティさんがかつては洗練さを欠いた存在であったことは、筒井康隆『ベティ・ブープ伝』に詳しいが、この「Kitty from Kansas City」は、まさにカンザス出身のド田舎者としてベティを描いているのだ。

 
ここは「みたい」じゃないよ

 もっとも、ベティはただの田舎娘では終わらない。歌詞に合わせてドタバタ演じられるそのまぬけぶりは加速して、馬はベティになりベティは馬になり、馬から海に放り出され、海面と海底を上下するうちに栓を抜いてしまい、干上がった海から人魚となって登場、海の生き物たちと行進を始めると、歌はあっという間に終わってしまう。異様な速さだ。

 コメディでは、急展開に置いてけぼりを食らった者がよく「I have a feeling ...」と、自分のついていけなさを表現することがある。そのことで、コメディの空気は緩み、笑いが生じる。「オズの魔法使い」でドロシーが発する「ここはカンザスじゃないみたいよ (I have a feeling we're not in Kansas)」というセリフも、このコメディらしい緊張から緩和への表現に通じている。ピーターセンによれば、カンザスを知らないイギリス人も、こうしたコメディ感覚ゆえに、ドロシーのセリフで笑うという。

 しかし、7ミニッツの短い人生を生きるカートゥーンに、空気を緩めるいとまはない。ベティはまさに「カンザスじゃない」ところまでイッてしまっているのだが、「ここはカンザスじゃないみたいよ」と驚くどころか、自ら先頭を切ってどこでもない場所へ突き進んでいくのだ。

(2003 Jan. 25)




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