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20030915







 朝、郵便局で郵送。ざっと140ユーロ。よく買った。
 青山さん、田尻さん、ゆうこさんを見送ってから、メトロでパサージュのインターネットカフェに行く。「阪神優勝」の文字。時差があるので、こちらでは午後に速報が入ったのだろう。この間、ずっと試合を見ていないこともあって、遠い国のできごとに見える。

 ポンピドーでラルティーグ展。昨夜、青山さんがレストランで「いやあ、ほんとによかった」と絶賛していたもの。
 ラルティーグは1901年以来、1986年に亡くなるまで、ずっと写真帳を作っていた。その100冊以上に及ぶ写真帖を年代順に並べていくという展示。
 その傍らでは、数十点のステレオ写真もヴュワー付きで展示されていて、これがステレオ写真愛好家にとってはため息の出るような内容だった。

 十年前、吉村信氏と『ステレオ』という本を書いたとき、「ラルティーグの『階段を下りる女』ってぜったいステレオで撮ってるよね」と話し合ってい たことがある。残念ながらそのときは二人ともそれがステレオ写真であるかどうかを確かめる資料を持ち合わせていなかったのだが、この展示で ようやく現物を拝むことができた。肩にもうけられた豊かなふくらみ。跳躍のいきおいによってぐっと突き出された右手の肘の奥行きが、はっきりとわかる。階 段を横から撮影したのは、その確かな奥行きを利用するためだろう。

 シーツをかぶった従兄弟を写した二重露光の写真も、じつはステレオ写真だったことがわかった。
 ラルティーグはカメラのレンズキャップをはずし、まず自分を写し、それから自分はいなくなってからまたレンズのキャップをはずして撮影すると、「自分を幽霊にする」ことができるのに気づいた。そこで従兄弟に協力してもらって、幽霊におそわれる人を写したというわけだ。
 ステレオ写真で見ると、この二重露光には別の魅力があることがわかる。シーツは半透明になり、すぐ向こう側にある椅子を透かしている。それはまるで薄く かかったレースのようにこの小さないたずらの舞台を覆っている。透かすとは、単に半透明のものが重なることではなく、どちらかがどちらかの手前になること を示す。
 この写真の構図の見事さもまたステレオ効果に由来するものだろう。テラスの階段、そして、白く細い柱をつたうツタの曲線は、ステレオにするとはっきり壁 から浮き立つ。半ば開かれた扉は奥まり、この世ならぬものの出入りを誘っている。開いたものが誰なのか、そこを出入りするものは誰なのかを見る者に考えさ せる。
 半開きの扉はいつでも謎めく。それは宗教画から面々と続く装置だ。

 ラルティーグは、1902年、八歳のときにSpido-Gaumonのステレオカメラを父親から与えられた。以来、1928年までに彼が撮影した ステレオ写真のネガはおよそ5000にのぼるという。階段を下りる写真は、1905年、彼がわずか11歳のときに撮影された写真だ。
 1912年にはKnapp Nettelの6*13のステレオカメラを手に入れた。これはパノラマも撮れるカメラで、彼は両方の手法に夢中になったという。

 1920年ごろからラルティーグはしだいにステレオ写真から離れる。その原因は明らかではないが、写真帖というメディアを彼が愛用していたこと も、その一因だろう。じっさい、写真帖にはりこむときには、彼はステレオペアにはこだわっておらず、片割れのみを焼き増しして、トリミングをほどこしては 写真に貼り付けている。何人もの人に手軽に見せる手段としてはステレオ写真はいささか不便だったことが理由のひとつとしてあげられるだろう。ステレオ写真ブームは終焉を迎えつつあった。

 が、彼の撮影する構図は、若い日に撮ったステレオ写真に明らかに影響されている。
 たと えば船遊びをするときに、船首や船尾に向けて奥行きを深く取る構図。妻に手を伸ばす写真は、明らかに突き出た肩から手、そこから長く伸びていく妻の肢体に続く奥行きを狙っている。
 前景に砂利道や草原を広くとり、遠くに人を置く構図もラルティーグは好んだ。たとえば従姉妹たちが草原で転がる写真は、彼女たちを囲む草原の空白によってその美しさを増しているが、ステレオ写真では、こうした砂利道 や草原は斜めにかしいだテクスチャとなって見るものの近くにせまってくる。逆立ちをする従姉妹の手前にジャケットが脱ぎ捨ててあるのは、こうした前景を強調するためだろう。

 流体への興味もまた、ステレオカメラによる撮影に由来するものだろう。ステレオ写真で見る水や煙は、その動きを止め、空間にあたかも塊のように固着する。岸壁にあがる水しぶきは雲となってその一瞬の動きを表わしている。
 水面は鏡となる。しかし、それは不完全な鏡である。水面から突き出された顔の反映は、ある部分は波の曲面につかまり、ある部分は水面に深く反転し、不定形のブラインドごしに歪んだ鏡を眺めたようになる。
 五人がカフェで並んでタバコを吸っている写真。煙は部屋の中をたゆたいながら、ところどころ窓から指す光に照らされて、その奥行きを確かにする。

 鏡への興味もステレオ写真に見られるものだ。鏡は単に似 姿を写すだけでなく、奥行きを反転させ、鏡面の向こうに世界の奥行きを広げる。彼が絵を描きながら鏡面にその自画像を写しているのは、ステレオ写真の感覚に由来するものだろう。

 浴室のBibiを扉越しに撮影した写真もじつはステ レオだったことがわかった。手前のテーブル、開けられた浴室からのぞくバスタブとBibiという配置は、明らかにステレオ効果をねらったものだ。
 有名なこの写真には、左端に鏡が置かれて、そこにラルティーグの姿が映り込んでいる。鏡の奥に写った彼と、浴室のBibiとが、同じ遠さに配置されることを狙ったのだろう。
 しかし、実物のステレオ写真では、故意なのか事故なのか、右眼の視野からこの鏡がはずれており、ラルティーグの姿は左眼のみに写っている。そのため、鏡 の中のラルティーグは、左右で視野闘争を起こし、それこそ幽霊のようにちらつきながら、世界の中で一人、奥行きを失っている。
 彼は結局、左眼用の写真のみを引き伸ばして写真帳に貼り付けている。新しい妻と幽霊の夫という奇妙な隠喩は、ステレオ写真をのぞいた者のみに明らかにされている。

 宿に戻る。この六階の部屋から見る黄昏はいつもすばらしかったが、今日はいつもにましてものすごい。部屋の窓からぼんやり見ながら、バケットとオ イルサーディンを食べていたら、隣の屋上にも黄昏見物のお仲間がいる。「今日のはすごすぎるね」と声をかけあう。

 跳ぶほどに遠のく影を閉じこめよ
 この姿 水鏡より遠くあれ
 滑りくる男の頼り カフェの椅子
 モニタ越しに 声かける人 カフェテラス
 六階に指笛届く 長き黄昏
 空を掃く塔のともしび 火星出(い)ず

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