ユーロスターのチケットを買いに北駅へ。昨日の夜から今朝にかけて電気系統がいかれたらしく、キャンセルやチケットをExchangeする客たちが長蛇の列を作っていた。 学会発表のアブストラクトをメールで打ちにPassage Croiseulへ。かつてKenzoが店を出していたパサージュだが、いまはカフェや本屋、ディスカウント洋品店などが並んでいる。ここにあるインターネットカフェは日本語が使えて便利なのだが、ひどく混んでいて、いったん近くのカフェで待ってから出直した。「地球の歩き方」で紹介されてるんだそうだ。 パレ・ロワイヤルのパサージュ性について。パレ・ロワイヤルは多くのパサージュに関する記述の中で、パサージュの原形として取り上げられている。 教科書的には、そもそも17世紀にリシュリュー卿が購入した館にルイ14世などが住んでいたのを、1681年にオルレアン公が手に入れた。 この場所がパサージュの原形と呼ばれるのは、そのオルレアン家のルイ・フィリップが1784年に、庭園をコの字型に囲む形で新古典主義風の棟とギャルリーをつけ、一階部分を商店街にしたことによる。ギャルリーは片側は店、片側は庭になっていて、雨露をしのいでショッピングができるという点では、確かに現在のパサージュの原形と言える。 コの字型のギャルリーの東西「Garlie de Valois」と「Galerie de Montpensier」自体をパサージュの原形としている本もある。が、実際に歩いてみると、むしろパサージュの原形にふさわしいのは、これらのギャルリーを含む庭園全体ではないかと思う。 北側から暗い天井を抜け、庭園に入ったときの暗から明の変化、そしてただの明ではなく、庭園の緑によってやわらげられている明への変化こそ、パサージュ的というべきだろう。これは一種のパサージュ・ウーヴェル(屋根のないパサージュ)のようなものではないか。ちなみに、かつてはこの庭園の真ん中にもカフェがあったらしい。 逆に現在のパレ・ロワイヤルに欠けているパサージュ性は、庭園と回廊の間の行き来を促す工夫だろう。回廊の鉄柵そばにはあれこれ現代彫刻が置いてあり、その内側がプラタナス並木、そして花壇という配置なのだが、プラタナスの大きさと彫刻のバランスが妙に寒々しく、回廊の親密さが一度途切れてしまう感じ。ル・グラン・ヴェフールは例外として、高級店にはこれといった店が入っておらず、観光客も意外にまばら。もっとも今はまだバカンスの終りの時期だから、春にくれば感じが違うかもしれない。 パサージュ・ブラディで夕飯。そこからずっとあやしげなサン・ドニ通りをセーヌ川近くまで散歩。 トリビューン紙で、あるパキスタン人は、インタヴューに答えてこう語っている。「アメリカがウサマを目の敵にするのは、彼が本当のムスリムでイスラムの擁護者だからだ。彼は、パキスタンの指導者のようなカッコ付きのイスラムではない。」「アメリカはヒロシマを爆撃した。今度はアフガニスタンに落とすかもしれない。だが、歴史は彼を決して許さないだろう。」 小泉首相が全面的な協力をうたう相手国であるアメリカのTVや新聞で繰り返し流れているのは、パールハーバーの映像だ。そして皮肉なことに、ヒロシマを引用するのはイスラム側なのだ。 アラブ人の多いBellvilleから西を歩きながら、パキスタン人のパサージュ・ブラディを歩きながら、引用されるパールハーバーとヒロシマを、ふたつながらに感じずにはいられない。 |