エルンスト・ヘッケルの家 (Ernst-Haeckel-Haus)へ。案内にあった時刻に行き、玄関を開ける。いきなり天井に装飾画、壁にメダリヨンと、イタリア風情だ。呼び鈴を押すと館員が出てくる。どうやら見学はぼく一人らしい。 入るといきなり、例のクラゲや棘皮動物の原画だ。眼が回りそうになる。何気にショーケースに開いてある「Natur」の鳥のページは、色つき印刷かと見紛うが、じつは15才のヘッケルが白黒の図鑑に彩色したものだ。さらにその隣にはヘッケルの大学時代の講義ノート。解剖学や組織学のスケッチがまた微に入り細に渡っている。 そして次の間は、ヘッケルの水彩・油彩を含めた展示。まずはなんといっても「Kunstformen der Natur」をはじめとする生物の細密画の原画。特に黒や緑色の紙に白インクで描かれたもの。 その白インクの絵を見て、昔、顕微鏡を買い与えられたとき、標本をクリアに見るために光源や反射板をあれこれいじったのを思い出した。そのときに偶然見つけたのは、反射板を裏返して、鏡のない黒い方を使って角度を調節すると、黒い背景に標本がまるで陰画のように透けて、とてもきれいに見えるということだった。この陽陰の反転はとても劇的で、何度も反射板を回したのを覚えている。 「Kunst」とあるように、この細密画には「Art」がある。ここでは、まなざしの対象である自然と、まなざすものの行為としての芸術との間の、絶えざる往復運動が行われている。「Kunst」に比べて「科学」に危ういところがあるとすれば、それが行為であることが忘れられがちな点だ。 ヘッケルの水彩画と油彩は初めて見るもので、ほとんどが旅先のスケッチだ。それもイタリアのものが多い。二階に上がる階段には、彼がナポリから持ち帰った幅2mはある横長のパノラマ図がある。イタリアが与える視覚の衝撃。ヘッケルよお前もか。 そして、ヘッケルの生前のまま保存されているという二階の間で、このイタリア趣味ははっきりする。まずバルコンの天井の装飾画、彫塑にそれが表れている。そしてきわめつけは、彼の書斎。この家を「Villa Medusa」(メデューサの家)と呼ばしめた、メデューサことクラゲが天井中央に描かれ、イタリア風装飾と融和している。本棚にもメデューサ。これまたヘッケルが作らせたものらしい。 カール・ツァイスと同時代にイエナに暮らしていたヘッケルは、ツァイスとも頻繁に会って顕微鏡の開発についてディスカッションを行ない、ツァイスの新製品の顕微鏡が出るとまっさきにそれを試すことができたという。 彼はモノキュラ(単眼顕微鏡)で得られる奥行き感と、ツァイスが力を入れていたビノキュラ(双眼顕微鏡)で得られる奥行き感をともに知っていたはずだ。そして、モノキュラという両眼視効果を消去する装置を覗きながら、ふとビノキュラを覗いているように奥行きが現れる感覚、つまり「覗き眼鏡」感覚を痛感したに違いない。とくに、彼が「Kunstformen」で描いた放射状の生物のような立体的構造の場合はなおさらだ。 そして、この単眼による手がかりで世界の奥行きを作り出してしまう魔術は、実はイタリアの風景や装飾に通じることを知っていただろう。その証拠がこの天井のメデューサであり装飾であり、階段に飾られたパノラマ画だ。 下に降りて、改めて彼の絵の陰影のディテールを見る。これは単に動物学的興味のみから来るものでない。ここにあるのは、棘皮動物の殻が投げる影、そしてそこに開いた無数の穴が顕わす向こう側の輪郭、あるいは腔腸動物の半透明の襞、その触手が見え隠れさせるそれらが織り成していく奥行き感覚への驚異だ。そしてそれは、彼の風景画に見られる奥行きへの関心(たとえば山の重なりの織り成す陰影)に、まっすぐ通じている。 昨日のゲーテの家に続いてこのヘッケルの家に来たのは収穫だった。イタリアとドイツと光学について、そして「Kunstformen」について、改めて考える手がかりがここにはある。 |
さて、塔に関心を寄せるものとしては、街の中心にあって120mの醜い姿をさらしている「Universit閣hochhaus」すなわち大学塔の未来についても知りたいところだ。 本屋に入ってあれこれ本を読むうちに、この塔はかつてツァイス社のために建てられたが、やがて大学の管轄下となり、統一後にはその存続が議論されている、というところまではわかった。 この塔の奇妙な歴史を知るには、さらに、戦後の東ドイツの歴史とそれに関るツァイスの歴史に触れなければならない。 ツァイスは19世紀末からナチス時代にかけて、コンビナートや高層ビルを建ててすでにイェナの街並みに大きな変化をもたらし続けてきた。しかし第二次大戦での敗戦とともに、イェナにはまずアメリカ軍が入りこんだ。そして「われわれは頭脳を取るのだ」ということばとともに、技術者をシュトゥットガルト近郊に強制移動させた。 アメリカ軍に遅れて到着したソ連軍は、工場を接収し、残った技術者をソ連に送り込んだ。イェナはやがてソ連の統治下になる。 かくしてツァイスはやがて東西に分裂することになった。西の本拠地はシュトゥットガルト近郊のオーバーコーヘン(oberkochen) 、そして東の本拠地はここイェナとなる。二社はやがて、どちらがツァイス社を名乗る権利を持つかをめぐって、山ほどの裁判を闘うことになる。そのあたりのいきさつは「ツァイスその栄光と歴史」に詳しい。 イェナのツァイス社は半ば東ドイツの(そしてソ連の)管轄下に置かれ、半官半民の「人民会社カール・ツァイス社」となる。そしてイェナの中心部に大コンビナート工場を建設し、街並みを一変させる。120mもの塔も、70年代にこうしたツァイス社関連の拡張工事の一環として計画された。しかし東ドイツの(そして東側ツァイスの)経済的な行き詰まりは、この巨大な塔を持て余し、結局、イェナ大学にこの塔の権利を譲り渡すことになる。 1989年から90年にかけての東西統一によって、東側のツァイスは再構築されざるを得なくなった。工場の区画の一分は大学の建物となり、さらにツァイス・イェナの大部分は、Jenoptikと呼ばれる総合企業となった。Carl Zeiss Jenaは西側のツァイス社と株式をシェアするツァイスの支部として残った。つまり、大まかに言うと、戦後、ツァイスは東のCarl Zeiss Jenaと西のCarl Zeiss oberkochenに分裂し、再統一後は、東のJenoptikと東西融合のCarl Zeissに分れることになった、というわけだ。 ツァイスが50年代から60年代に建てた高層ビルには現在「Jenoptik」の青い文字看板が掲げられている。「Jenoptik」は、光学機器のみならず街の再開発まで手がける統一後のイェナの総合会社だ。 |
それにしても、この塔の無残な姿は解体なのか改築なのか? 宿の女性に聞くと「さあ、どうなのかしら」とすげない返事。そこでツーリスト・インフォメーションの女性に聞くと、わざわざ表に出て塔を指しながらあれこれ教えてくれた。これは改築作業で、昨年から始まり、この秋には完成予定だという(とてもそうは見えないが)。改築の暁には、インターネット会社であるIntershopが塔をすべて貸し切りたいと言っているとか、市のオフィスが入るという話があるが、正確なところはまだわからないとのこと。この女性が東側にずっと暮らしてきた人なのかどうかはわからない。「微妙な問題に答えてくれてありがとう」と礼を言うと、「いいのよ、だってみものじゃない、この塔がどうなるか、あたしも楽しみよ」と彼女は言った。 むろん、この街の産業に決定的な影響を与えたツァイスの名前はいまもはっきりと残っている。サッカーチームは「カール・ツァイス・イェナ」を名乗っているし、ツァイス・プラネタリウムも顕在だ。Jenoptikのショップにも、ツァイスの顕微鏡がほこらしげに飾られている。でも、ツァイスという響きは同時に、ナチズムと東ドイツ時代の苦い記憶を呼び覚まさせるはずだ。ツァイスの名は、カール・ツァイスという個人の業績を言祝ぐだけでなく、ツァイスという会社がその後たどった軌跡を想起させる。この二つの出来事が街の断続ではなく街の歴史として建築という形に定着するには、まだ時間がかかるだろう。大学塔の改築は、歴史の読み替え、歴史の改築の試みと見ることもできる。 幸い、この街はワイマールに比べて、起伏のある丘が、ともすれば平板になりがちな東ドイツ時代の街並みに変化を与える。そしてなんといっても大学が中心にあって、若い人があちこち闊歩している。ガラス貼りのゲーテ・ギャラリーや市電が乗り入れる大学構内の新しさには、あれこれ意見があるだろうけど、少なくともぼくのような一時旅行者には、人にちゃんと使われているということが伝わってきて、悪い感じはしない。 夜、旧教会でオルガンコンサートを聞いて帰る。宿への帰り道、ライブスペースの入り口の案内には「サウスパーク・ナイト」。 |