「浅草鳥瞰図」(添田唖蝉坊『唖蝉坊底流記』昭和四年)から



地下鉄タワー

 赤煉瓦の十二階のテッペンで、関八州を踏んで、逢曳をすることを画いては、浅草らしい恋の場面ではないか、とひとり悦に入って居た昔であった。

 地下鉄の塔は、四十米。六階だから、十二階のちょうど半分だ。だが、これでも間に合はぬこともない。あの、お寺の鐘楼のやうな、塔の上を、恋愛感覚跳躍の舞台に使ふなんてのは、面白くないことはないだらう。
 大阪では、新世界の空を突ッついてゐる通天閣の上で、カフエーが店を並べ、女給が踊らうといふ計画ださうではないか。なんとこれは大阪式の、尖端的とやらの、ふざけた通信を聞くものではないか。
 たとへば間に合せにしたところが、地下鉄の塔を活用しないといふことは、わが浅草ッ子にとって恥辱ではなからうか。
 食券をお求め下さい。− 二階、三階は禁酒食堂。四階、五階は普通食堂。
 「地下鉄の食堂が上にあるなんておかしいね」
 私のひねくれだ。すると、
 「どうもすみません」
 エレベーターガールが笑顔で詫びるのだ。何と可愛いことを言ふ子だ。箱の隅の小さなわくの中に、「桃子」と書いてある。断然好きになったのである。
 五階でございます。− も一つ階段を踏めば六階。お稲荷さんの鳥居。お皿にあぶらげと野菜である。くるくると、舞台裏のやうな、狭い階段をあがる。
 まづ東の窓を見よう。目の前の神谷酒場(バー)。それから川を隔てた、サッポロビールの建物。吾妻橋、言問橋。隅田公園のフチのみどり。大島のガスタンク。遠い遠い筑波山。
 南には、橋が重なってゐる、駒形、厩、蔵前、両国、国技館、震災記念堂。ちょっと右手の三越だ。
 西側−。伝法院と浅草公園。上野公園と松阪屋。九段の丘と、ニコライ堂と、帝国議事堂。
 北の窓−。観音の屋根。千住の瓦斯(ガス)タンク。吉原の空。
 
 コツコツ階段を下りてゆくと、お化粧室がある。用を足しながら、観音様を拝むのはもったいない。弁天山へ突き当る路の人の往き来を見てゐると、面白い。もっといいものが見える。お二階の窓。
 あら、いやな人−。
 静かに用を済ませたら、手の中でハンカチをもみながら、出る。すまして、階段を下りてゆくのです。


(*引用は『唖蝉坊底流記』刀水書房をもとに行なった)



 明治のシンガーソングライター、添田唖蝉坊は、大正期に十二階下に自由倶楽部を作り、「淫売も商売」と私娼廃絶に反対した。貧民の糧としての私娼を認めさせるためだった。
 関東大震災「頭のない十二階が燃える」(唖蝉坊流生記)のを見た唖蝉坊は、長年住んだいろは長屋を焼け出され青森へ避難、東北をさすらいながら唄をうたった。

俺は東京の焼け出され  同じお前も 焼け出され
どうせ二人は家もない  何も持たない 焼け出され

焼け出されても ねえお前  生きたい心に何変ろ
俺もお前も さすらひの   旅で苦労して 生きようよ

武蔵野の原 照らしてる     昔ながらのお月さん
わたしゃこれから さすらひの  旅で苦労して 暮らすのよ

(『地震小唄』)

 やがて桐生に居を構えたが、それからも全国を転々とし、昭和六年から八年にわたる遍路に出る。『唖蝉坊底流記』は、そんな唖蝉坊が昭和四年に『改造』に連載したものだ。

 長らく親しんだ浅草にもはや十二階はない。震災後、焼け跡にはあちこちにビルヂングが建ち、エレベーターガールという職業まで誕生した。
 地下鉄ビルが「震災後」なら、屋上からの景色も「震災後」だ。そこには十二階はない。震災記念堂はもちろんとして、二つのガスタンクが記されているのが目をひく。いまだバラック建築の目立つ東京の鳥瞰の中でガスタンクは、最初に出現した明治末期や大正の頃にはありえなかった、異様な存在感を示していたに違いない。おそらく、唖蝉坊はそのようなガスタンクの放つ、強烈な違和感を感じ取ったのだろう。
 日比嘉高氏は「機械主義と横光利一『機械』」の中で、

「東京ガス千住工場のガスタンクは一九一四年には完成しており、〈物〉としては存在していたわけだが、この時期になるまでそれは芸術家達の視線の対象として浮かび上がってこなかった、と小泉淳一氏は指摘するが、このことはそこで起こっていたことがまさに文字どおりの『発見』であったことを示している。かつては『美的』ではなかったものが、新たに『美』を持つものとして見つけ出されてゆくのだ。」

と書いている。震災後、むき出しのガスタンクが放つ違和感は新しい世代によって「機械美」として捉えられるようになった。




 手元に地下鉄ビルの絵はがきがあった(→拡大)。昭和七年の主婦之友の付録。説明には「浅草吾妻橋畔にあります。日本最初の地下鉄道の起点にあたるところです。現在の線路はまだ一局部だけにしか過ぎませんが、数年後に予定線の工事を終つた場合には、大東京の交通潮流に一大変化を招来するものと期待されてゐます」とある。
 震災後、東京の地下鉄は浅草−上野間に始まった。地下鉄ビルはいわば新時代の起点だった。絵はがきの写真にもそのような気運が見える。仰角で斜めに切り取られたアングル、画面を交差する電線。「機械美」の時代の産物だ。そういえば、当時発刊された「浅草紅団」の表紙の地下鉄ビルも、やはり斜めに切り取られて描かれていた。

 当時五七才の唖蝉坊にはおそらく、地下鉄ビルやガスタンクを新時代の機械美として捉えることはできなかった。かといって「浅草紅団」の主人公のように、地下鉄ビルの上に立って自らを「地震の娘」と呼ぶような瑞々しい若さもなかった。
 そのかわり、新時代の象徴のようなエレベーターガールに、ちょっとひねくれてみせる。それから「断然好きに」なる。「断然」というところがカナシクもおかしい。そして、断然いいのである。





左上:浅草松屋百貨店と東武線電車、右下:震災記念堂(絵はがき)。
浅草松屋は昭和六年に開店し、地下鉄タワーの高さを凌いだ。
昭和四年の唖蝉坊の文章にはその姿は書かれていない。
→拡大

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