明治大正スクラッチノイズ(柳澤慎一/ウェッジ文庫)
芝居随想 作者部屋から(食満南北/ウェッジ文庫)
明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎(矢内賢二/白水社)
仕事柄、出張で新幹線を使うことが多い。乗り際に駅弁や飲み物を求めてキオスクに駆け込むのはいつものことだが、そこで売られている本に目を留めることは、これまでほとんどなかった。儲け話や頭がどんどんよくなる話なぞ読んで旅ができるか、と不遜にもタカをくくっていたのである。
ところが、先日、ほんの数十冊の文庫本しか並んでいないそのキオスクの本棚に『明治・大正スクラッチノイズ』という背表紙を見つけてはっとした。ぱらぱらとめくっただけならば一見端正な編年体に見えるこの本は、いったん読み出したならあたかも飛び回り双六のごとく、時代から時代へ、歌から歌へと飛んでは戻り、洋の東西を駆け巡り、その行きつ戻りつがシャレのめされるのをたどるうちに、78回転で世界を巡るスピードが身につくという快著で、戦前のコミックソングを歌わせたらこの人という渕上純子さんに「柳澤慎一さんはすごい!」とその存在を教えていただき、教えていただいておきながら、この本の楽しさは私だけのものだと、密かにほくそ笑んでいたのである。こんなところで文庫本として出会うとは。
さらに驚いたことに、そのキオスクの数十冊の中には、内田魯庵や馬場狐蝶、平山蘆江といった渋い名前がずらずら並んでいるではないか。どういうことだ、これは。
いずれの背表紙にも「ウェッジ文庫」とある。ウェッジといえば、新幹線の車内誌を作っている出版社だと思っていたが、文庫を見る限り、特に鉄道にこだわっているわけではなさそうだ。かといって、ただ著名な明治・大正の復刻もので当てようというような半端な構えでもない。試みに読んだことのなかった室生犀星の『庭をつくる人』を手にとってみると、目次の装丁も字組も、じつに丁寧な作りである。これはこれは、とページを繰るうちに、犀星の控えめなようで意外に頑固な庭造りへのこだわりを思わず読み進めてしまっている。白昼の新幹線のホームなのに、なんだか、古書市で好みの本がずらりと保存状態優良で並んでいるのを目の当たりにしているような気分だ。
どんな事情でこのようなラインナップの文庫が誕生したのかは知らないけれど、おそらくは、幾多の回顧録を読み込んだ手練れの編集者が関わっているに違いない。ならばと、キオスクでがばっとわしづかみにして買ってしまった。
座席に着き、いつもならパソコンを開くところを、まずは一冊、食満南北「芝居随想 作者部屋から」を取り出してみた。果たして、これがおもしろい。
芸談では演じる側の視点を取るのが通常だが、劇作家によるこの本では客の視点を取る。歌舞伎の虚が実になり、実が虚になる、そのあわいに驚く客の心象が描かれる。たとえば、花道に現れた団十郎を書く件では、「腰元の手を放して、とんと鳩の杖をつき、舞台に飾れた菊畑からづつと眼を転じて、桟敷から高土間、土間、大向と、満員の見物を大きく見廻はした。」と、団十郎の所作のひとつひとつが活写される。さらに続けて、こうだ。「そしてあの名調子で『ほほう、咲いたは、咲いたは…』と、菊を称える台詞にうつる。/この時私は、私の周囲にゐる娘さんの花かんざしも、紳士諸君の鼻下の髯も、老女の化粧も芸者衆の綺羅星の如き一連も、すべて今出川の鬼一の奥庭にある、菊の花に見えたのである。」もちろん、舞台の菊から客席へと眼を転じていく団十郎が凄いのだが、その、団十郎の視線がゆっくりと客席をなめていく速度を、かくもぬめぬめと写し取って、平成の読者に、我が身もその菊畑の一員になってしまったが如き臨場感をもたらす迫力は、ただごとではない。
団菊左、尾上梅幸、中村雁治郎、仁左右衛門と名優の描き分けが楽しい一方で、柝の打ち方から稽古の進み方まで、座付作者ならではの裏話も詰まっている。
劇作家らしい語り口を楽しむうちに、ひととき、新幹線にいる時間から浮遊する心地がした。ウェッジ文庫、なんとも嬉しい旅の友が現れたものだ。
歌舞伎といえば、こちらは文庫ではないが、今年出版された「空飛ぶ五代目菊五郎」も楽しかった。菊五郎のキワモノ歌舞伎の演目ひとつひとつを、その時代背景とともにたどっていく内容なのだが、これは歌舞伎好きの読者のみにとどめておくにはもったいない。
見世物や事件を題材にしたキワモノは、ひととき流行っては廃っていく風俗を題材にしているがゆえに、時代が経つにつれその背景を知るのが難しくなる。著者も書くように、「後から台本を読んでも肝心のところは『よろしくあって』としか書いてないから、どこが面白いのかよくわからない。その場そのときに居合わせたものだけが眼福の権利をもっている。もともと芸能とはそういうものだが、特にキワモノの賞味期限の短さときたらお話にならない。したがってキワモノは歴史に残らない」。その歴史に残りにくいキワモノを、現代の読者の前にあざやかに広げて見せるには、芝居の台本のみならず、当時の風俗を説き起こしてその空気を読者に呼吸させねばならない。さらには、そのキワモノが、江戸以来の歌舞伎の伝統に対してどのような工夫を凝らし、いかほどまでにかぶいていたかを語らねばならない。ちょうど山田風太郎の明治小説がそうであるように、江戸と明治の偏差を正しく測ることによって、時代の屈曲を生きた人の心象を浮かび上がらせる必要がある。
わたしはかつて『浅草十二階』という本を書くにあたって『風船乗評判高閣』について調べたが、「風船」というひとことの由来を調べるだけでも、その資料の多さ、複雑さに呆然とした覚えがある。この著者は菊五郎のキワモノすべてを調べるにあたってどれほど多くの資料に当たったのだろう。しかし文章には膨大な資料を接いだがゆえのぎくしゃくは見られず、あたかももうひとつの芝居を見るように、奇想天外な菊五郎のアイディアが、明快な筆致で開陳されていく。著者は一九七〇年生まれ。新しい時代に心躍らせた菊五郎の気概を伝えるべく、遠い明治の空気に読者を臨場させるその力は並々ならぬものだ。
(評:細馬宏通「東京人」2009年1月号 p164-165)