音楽の聴き方(岡田暁生/中公新書)
イタリア語もろくに知らずに、トリノを旅したことがある。当てずっぽうに郊外の美術館行きのバスに乗ったら、駅からずいぶん遠くて、夕方には電車に乗らなければならないのに、受付で教えられた停留所に、帰りのバスはいつ来るとも知れなかった。見上げた停留所の標識に、「fermata」とある。停留所のことかな、と思ってローマ字読みをしてから、それが小学校で習った音楽用語の「フェルマータ」であることに気づいて愕然とした。バスが止まるフェルマータ、フェルマータから再び走り始めるバス。こんな風に時間に頓着しないバスの、ひととき留まる場所がフェルマータなのか。「フェルマータでは音符のおよそ二倍の長さだけ伸ばしなさい」と先生は言ったけれど、あれは方便だったのかもしれない。だって「停留所」なら、必要なだけ留まればよいのだし、いきなり全速力で再開するのじゃなくて、ぼちぼちと走り出せばいい。なおも来ないバスを待ちながら、そんな考えを膨らませているうちに、これまで呪文のようだった音楽用語が、にわかに血肉化するようだった。
『音楽の聴き方』を読みながら、その体験を思い出した。著者は、音楽用語のほとんどが、実は特定の身体感覚を表す「わざ言語」的なものであることを指摘した上で、音楽における言語表現の重要性を考える。スタッカートは「はがす、ちぎる」、レガートは「縛る、結ぶ」。音楽の速度や強弱が、デジタルな数値ではなく、「アレグロ」や「フォルティッシモ」のようなことばで表されているのはゆえ無きことではない。「今日のような抽象的/普遍的な『用語』になる以前、これらの言葉は日舞における『腰を入れて』などと同じような、イタリアの楽士たちの生き生きしたわざ言語(ジャルゴン)だったのだろう」と著者は書く。
本書は、音楽を語る言葉を扱った本である。タイトルは「音楽の聴き方」だが、論じられているのは、単に聴くことではなく、われわれが知らず知らずにとっている「聴く型」とは何かということであり、その際、どのような言葉によって聴く型を作り上げていくか、という問題である。音楽の前で言葉はひれふしなければならない、というよくある考え方は、実は19世紀のロマン主義的な音楽観に過ぎない。音楽から言葉を排し、聴き手の持つ文化を排したとき、それがいかにもともとの楽曲から遠ざかってしまうかについて、本書では、譜面に現れない音楽文法の問題や、作曲家と演奏家の関係など、さまざまな切り口から論じている。
もちろん、音楽に心動かされるときの最初の一撃が、言葉まみれというわけではない。言葉による媒介を介さない音楽体験についても、著者は触れている。言葉を介して聴き始めながら、その言葉が音楽によって軽々と抜き去られてしまう瞬間こそ、音楽のいちばん「神学的な」瞬間である。しかし、言葉に頼り過ぎると、その瞬間は逃されてしまう。言葉を携えながら、その言葉が無効となる瞬間を受け入れることは、いかにして可能なのか。この問いは読者に向かって開かれている。扱われているのはクラシック音楽だが、クラシックのみならず、芸術と言葉の問題を扱った書として読むことができるだろう。
(評:細馬宏通「東京人」2009年10月号 p150)