一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)
本書の章扉にある「宿舎で故郷へ手紙を書く兵士たち」という写真を見て、はっとした。
じつは、私の手元には、使用済みの軍事郵便はがきが何枚かある。肉筆の文章には、活字にはない生々しさがある。たとえば、一枚のはがきに「彼を失って以来少々淋しい」と記されている。私の知らない誰かが、私の知らない誰かに宛てて書いた文であるにもかかわらず、それは、まるで私に宛てられたかのように、胸を突く。写真の中で宿舎の蒲団に寝転んで兵士たちがそれぞれの文章をしたためている姿は、あたかもその手元のはがきが書かれた現場であるかのようで、胸しめつけられる思いがした。
軍事郵便は、古い紙ものを売っている店や市の、郵便物の束に混じっている。おそらくは、戦争世代のご本人が亡くなられ、近しい方々が古い郵便物を処分されて、それが古物屋に流れてくるのだろう。昔の手紙やはがきの文字は、今の人には読み辛い。おまけに軍事郵便のデザインは、軍隊色が強く、こちらを暗い気持ちにさせる。さっさと処分してしまいたくなるのが人情なのかもしれない。それを、縁もゆかりもない私のような者が拾い上げてしまうのが、いいことなのか悪いことなのかはわからない。わからないが、そこに書かれている手書きの文字は、折にふれて思い出される。メディアで再現される戦争ドラマを見たりすると、違和感の核のように頭の中でせりあがってくる。
戦争体験者の語りや文字に触れる機会が減りつつある。現在の若者は、「戦争を知らない子供たち」のさらに子供、あるいは孫の世代だ。むろん現在も、さまざまな映像や物語によってかつての戦争は扱われ続けているが、当事者のことばを忘れた表現は、ともすれば抽象的な戦争のイメージを膨らませる。たとえば、格差社会を解決する契機として戦争を考えるといった発想は、たとえその狙いが戦争礼賛ではなく格差社会批判だったとしても、あまりに単純化された戦争イメージに寄りかかっている。
『皇軍兵士の日常生活』は、こうした戦争イメージの希薄化に対して、軍隊という場所がいかに徹底した格差社会であったかを検証した著作である。徴兵の手続きに始まり、兵士の衣食住環境、さらには戦死後の墓、家族への死亡通知や死亡認定にいたるまでが扱われており、コンパクトながら事例は豊富だ。時局が押し詰まると、平等という考え方が、いかにたやすくねじ曲げられてしまうかを、思い知らされる。
一ノ瀬氏にはすでに軍隊に関する著作がいくつもあるが、その特徴は、書物化された文献だけでなく、日記や郵便物など、個人の手による記録をしばしば用いるところにある。通常の文献よりも、あえて長い記述が費やされることすらある。私には、その態度が分かるような気がする。
日記や郵便物は、個人的であるがゆえに、全体像からすれば局所的な偏りや瑣末さを含んで見えるときもある。しかし、肉筆で書かれた一文一文には、論者の持っている既成概念を揺らすだけの、動かしがたい力がこもっている。いかようにも咀嚼できる平坦な戦争論にとって、手書きの文字は、かみ砕くことのできない石となる。その石の固さを著者はあえて避けることなく、むしろ考えの種にしていく。そして読み手もまた、著者の態度に添い、自身の戦争像の再考を迫られることになる。
(評:細馬宏通「東京人」2008年5月号 p150)