継ぎ足された小屋、よそから来た口癖

川上弘美『どこから行っても遠い町』(新潮社)、『真鶴』(文藝春秋)

 『どこから行っても遠い町』を読み始めて間もなく、八百吉のおばちゃんが隣のビルを評して「せっかくの瀟洒(#しょうしゃ)なビルなのに」と言う場面で、あれ、と、つっかえた。
 気取らない会話を記したかぎかっこの中に、ルビのふられた「瀟洒」という漢字が、声にされるのを拒むかのように、ざらりと含まれている。こんなことばを、八百屋のおばちゃんが使うだろうか。
 自分は使うかな、と考えて、そういえば、つい最近「瀟洒」を使ったことを思い出した。信楽を訪れたときのことで、初めて過ぎる窯元散策路の奥に現れた真新しい建物を見て、モダンというほどあからさまな形でなく、古風と言うには新しく、あたりには人の気配がなく、それで「なんともショウシャな作りですね」と言ったのだった。
 使い慣れたことばというわけではない。ものの本では見たことは何度もあるが、漢字で書けと言われたら、たぶん書けない。以前、知人の文化人類学者が「なんともショウシャな」と言うのを何度か聞いたことがあり、その、訪れた土地の手がかりをひとつひとつ確かめていくところから始める職業に特有の、感に堪えないような口調が印象的で、あの使い方はいいなと思っていたら、自分も、同じ口調で口にしていた。いや、口にしたときは、そんなことをいちいち思い浮かべていたわけではなかったが、いま思い出してみると、わたしの「ショウシャ」には、そんな来歴があるのだった。
 そんなささいなことを思い出せるのは、「ショウシャ」ということばが、少しばかり日常のことばから浮き上がっているからなのだろう。ただ漢字が難しいというだけではない。「ショ」と「シャ」、二つの似た音をあえて並べる、発音のしにくいことば。すらりと発音できることで、その語を使い込んできた使い手の来し方がにじんでしまうようなことば。「ショウシャ」とはおそらくそういう微妙な領域に属することばで、だからこそ、それをあえて声にするときに感じられるひっかかりが、思い出されるのだろう。
 八百屋のおばちゃんにも、あるいは来し方があるのかもしれない。誰かが隣のビルを評して、彼女に「ショウシャなビルなのにねえ」と言う。へえ、ショウシャというんですか、そういうときは、と感心してからのち、思わず知らず、自分でも誰か別の人に「ショウシャなビルなのにねえ」と言ってしまう。それが隣のビルを評するときの、彼女の口癖になっていく。そういうことだって、ありうるだろう。

 何をひとつの言い回しに引っかかっているのか、と思われそうだけれど、短編集『どこから行っても遠い町』を読んでいくと、なぜか、そういうことばの来し方を考えたくなる。「瀟洒」に限らず、登場人物の語ることばには、ちょっとしたひっかかりがいくつも埋め込まれている。
 書きことばでできた独白だと思ったことばが、ふいに話しことばになって浮き上がる。短編「午後六時のバケツ」で、高校生の譲は、自分がなぜガールフレンドと仲直りできたのかを、父親の渉にこんな風に語っている。
 「仲直りしたとたんに、セックスもした。/こちらのほうも、どうやってそこにもちこむことができたのか、僕には把握できていない。/『気がついたら、してた』/『そういうもんだよなあ』渉がまた頷く。
 途中まで書きことばとして思考されていた語り手のことばが、そのまま会話に漏れていく。「そういうもんだよなあ」という父親のあいづちは、語り手のことばへと漏れていく。かぎかっこの内と外との境があいまいになり、互いの方へと浸み出していく。
 あるいは、相手のことばに合わせるように生まれる口癖がある。「急降下するエレベーター」では、語り手の潮(#うしお)の口癖が生まれる経緯が、こんな風に書かれている。
 「佐羽に対する、いちばんあたりさわりない相槌である、『そっか』を発見したのは、いつのことだったろう。その言葉を見つけてから、わたしは少しだけ、佐羽と一緒にいるのが楽になった。」
 「蛇は穴に入る」は、口癖の小説だ。「蛇は穴に入る」とは、登場人物の辰次さんが唱えることばで、辰次さんはそれを「おれの二番目のかみさんの、口癖」と言う。二番目の「かみさん」の口癖は、いまの奥さんと連れ添うようになったあとも、辰次さんの口から漏れだしてしまう。それはすでに、辰次さんの口癖でもあるのだろう。
 語り手はその辰次さんの、いまの奥さんの介護ヘルパーである。語り手は上司とのちょっとした雑談の最中にこんなことを言う。「ぼくをまったく知らない女か、それとも反対に、すごくよく知った女のどちらかが、ぼくに魅(#み)せられるんですってば」。魅せられるって、あなた、と語り手は上司に笑われる。「魅せられる」という、話し言葉には珍しいこの言い回しもまた、語り手が誰かから学んだことばなのだろう。

 同じ作者の長編『真鶴』では、一人の語り手が、声を聞き、気配に体を研ぎ澄ませ、この世のものとこの世ならぬもの、わたしであってわたしでないものとの遠近(#おちこち)を、さまざまな形で探っていった。触覚の前触れを声から探っていくような狂おしい今生と他生の行き来は、折口信夫の「死者の書」を彷彿とさせた。それに対して、『どこから行っても遠い町』は、次々と語り手が入れ替わるせいだろうか、どこかほっと心を落ち着かせるような読後感がある。
 その一方で、二つの小説は一貫した主題、声と他生とのやりとりによって貫かれているように見える。『どこから行っても遠い町』の語り手たちは、今生の会話のやりとりの中に口癖を見出し、そこにわたしではない誰かの声を見出す。わたしたちの口癖には、他生が組み込まれている。交わされる淡々とした会話の中に、声の他生が横溢している。

 舞台となる商店街には、屋上に小屋のある奇妙なビルが登場する。八百屋のおばちゃんの言う「せっかくの瀟洒なビルなのに」とは、このビルのことを指す。継ぎ足された小屋がビルになじんでいくように、語り手の中に住み着いた誰かのことばは、何度も唱えられるうちに、その人の語りの中に組み込まれて、口癖になる。口癖は、違和を感じさせ、同時にその来歴をゆかしく思わせる。
 この屋上に小屋のある建物は、作者が真鶴を訪れたときに偶然見つけた光景から、着想されたのだという。


(評:細馬宏通「東京人」2008年3月号 p148-149)

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