声を発する人、声を聴く人

松浦寿輝『増補折口信夫論』(ちくま文庫)
吉増剛造『生涯は夢の中径』(思潮社)
折口信夫『死者の書』(中公文庫)

 日常会話の声や動作の研究をしているので、録音された人の会話を繰り返し聞くことが多い。自然と、声の微妙な響きに分け入ることになる。
 たとえば、「ほう」と感心する声である。文字にするとたかが二文字だが、そこには二文字では表しきれない、さまざまな性質が埋め込まれている。
 相手の言葉尻を待たずに、相手の言葉の真っ最中から「ほう」と言い始める人がいる。よく聴くと、ただすらりと「ほう」と言っているのではない。まず、音の大きさとしてはごく微かな、吐息が現れる。ただのため息なのか、それとも何らかのことばに結ばれていくのか、その時点ではまだわからない。あえて書くとすれば、アルファベットの「H」を長く引き延ばしたような感じである。
 息は、帚星を逆にたどるように長い尾を掃いてゆき、やがて声帯が震え、ほのかな光点のように母音「O」が現れる。このときようやく、さきほどの「H」が実は「ほ」の前触れであったことが明らかにされる。さらに「O」が長く引きのばされて、やっとそれは「ほう」と感心する音となる。
 いきなり大きな声を立てて相手を遮るのではなく、まずは「H」の音で忍ぶように入り込み、相手の言葉が終わりかける頃にようやく「O」の音を本格的に鳴らして、感心のほどを示す、という具合なのである。
 相手のことばに重ねるべきか、重ねるとしたらいつどのような形がよいのか。わずか一文字の「ほ」の中で、そのような微細な調整が繰り広げられている。声のエキスパートでもなんでもない、普通の人たちがこうしたやりとりを巧みに行っているのを知ると、文字によって表された声の背後に、奥深い世界が広がっているのを感じずにはいられない。

 民俗学には門外漢の私だが、このような声の微細な響きへの興味を広げるうちに、いつしか折口信夫の文章を読むようになった。彼の文章を読んでいると、民俗学にというよりは、声の魔に分け入っていくような気がする。
 たとえば、先に挙げた「ほ」は、折口信夫がとくに好んで用いた音で、『死者の書』にも「ほ」で始まる擬音が繰り返し現れる。『万葉集用語集』によれば、日本語の「ほ」の起源は「穂」にあって、そこから「秀(#ほ)」が派生した。「火」を「ほ」と呼ぶことも、この起源にまつわる。つまり「ほ」の音は、単に何もない更地に何かが突出していることを指すのではなく、まず、茎や山があり、その先に現れたものを指す、ということになる。
 吐息で始まり、その後から声帯のふるえが現れるというH音の時間変化によって、突出という空間変化が表される。とすれば、モノとそれを表す音との間には特別なつながりはないという、言語学でよく言われる話は、じつはちょっと違っているのではないか。むしろ、声は、口の中で起こる微細な時間感覚を用いて、この世界で起こっている変化をうつし取っていないか。そして、声は、あたかも「ほ」の音のように、次に訪れる声を予告しながら、世界のあらわれを予告してはいまいか。折口信夫の文章を読んでいると、そのような思いにとらわれる。
 最近文庫化された松浦寿輝『増補折口信夫論』を手に取ったのは、そうした関心もあってのことだった。最初は「音(#オト)の訪(#オトナヒ)」「喪(#モ)の裳(#モ)」といった、唱えたくなるような章題の響きに惹かれたのだが、読み進めるうちに、折口信夫の書きことばに潜む禍々しいほどの声の気配が迫ってくるようで、思わずページを繰らされた。
 たとえば、本書では、『死者の書』の印象的な跫音「つた つた つた」が、驚くべき細かさで腑分けされている。松浦氏は「つ」の音に「よく磨かれた気の廊下とはだしの蹠(#アシノウラ)とがかすかに[擦り合う]([]内傍点)感触」を聞き、「た」の音に「軽く床を蹴って突き離す」動作を聞く。「『つた』の二音は、単に『うつ』音なのではなく、かすかに『軋み』つつ『うつ』音なのである」。
 松浦氏の論は、折口信夫の書きことばに鋭敏な耳をそばだてている。が、ただ細かく分けて終わっているのではない。本書で最も重要なのは、声を発する者と聴く者との間の、距離についての論考である。
 「つたつた」にしても「ほ」にしても、折口信夫は、あたかもまれびとの訪(#オトナ)ひを予告するように「つ」「ほ」といった先触れの音を用いる。そのため、彼のことばは、まるで耳元で鳴るかのような息苦しさ、距離の近さを感じさせる。しかも、それは、生き生きと身に添う近さではない。『死者の書』の「彼(#カ)の人」のように、固い褥の上で身動きもならず横たわりつつ聴く近さである。あるいは、身動きならぬその素裸の上にかけられる裳(#モ)のようにまとわりつく、得体の知れぬ近さでもある。
 この世のできごとをうつしとり、この世のできごとをひたすら擬(#もど)きながら、一方でまれびとのようにその正体を明かさず、この身に迫ってくる声。その狂おしいほどの近さを松浦氏はときに「エクリチュールの大嘗祭」と呼び、ときにはその声を脱臼させる方法を考えながら、あくまでぎりぎりの距離を取り、その得体のしれなさを書ききろうとする。声を聴く者の傷の書、と言ったらいいだろうか。

 数年前に発表された吉増剛造『生涯は夢の中径』は、同じ折口信夫の声を論じていながら、その歩み方は、松浦氏の論考とはよほど違っている。「音の発生の場所」を「物を細分化していった中途にあらわれる運動の場」と捉える中上健次の折口論をもとにしながら、吉増氏は、運動の場の「そのさらに割れや傷、沈黙(#しじま)の石をみつけて、そこに想像の径、静かな場所を見付けて下って行こう」と、自らの態度を明らかにしている。そして、「折口(#オリクチ)さん」の生涯に埋め込まれた声に耳を澄ませながら、あちこちの下り口へとイメージを下ろしていく。その屈曲する歩みは、まるで声を発する者自身の傷をたどるかのように、わたしには響くのである。

(評:細馬宏通「東京人」2008年9月号 p151-2)

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