山本義隆『一六世紀文化革命1,2』(みすず書房)
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)
一五世紀、芸術家や人文主義者によって推し進められたルネサンスの胎動は、一七世紀、ケプラーやガリレオやニュートンやハーヴェイらをによる科学革命を生んだ。その中にあって例外的に、レオナルド・ダ・ヴィンチのような天才やパラケルススのような医学者が現れた。
と、このようにまとめるなら、文化や科学はエリートによって先導され、間にきらびやかな天才たちの活動をちりばめながら一直線に進んでいくかのように思われる。しかし、そのような見方が唯一なのか。
著者は、一五世紀と一七世紀の谷間として見過ごされてきた一六世紀に、じつは重要な革命があったのではないか指摘し、これを「一六世紀文化革命」と名付ける。
二巻に渡る『一六世紀文化革命』の立役者として次々と登場するのは、当時のアカデミズムにあって、伝統的な思考による論証と、それによって明らかにされる原理とを重んじていた人々ではない。むしろ在野にあって、実際の現場で培われた経験に基づく測定と、それによって導き出される近似とを重んじていた人々である。
通常の科学史では軽視されてきた人々、逆にいわゆる偉人として扱われてきた人々、とりわけ在野の人々に、本書では次々とユニークな光が当てられていく。この、綿密な人物伝の連続を縦糸とするなら、それを有機的につなぐ横糸は、一五世紀から一六世紀に起こった印刷革命と言語革命についての論考である。
グーテンベルクの活版印刷術じたいは、一五世紀半ばの産物だ。しかし、著者は、活版印刷と木版印刷との組み合わせが盛んになった一六世紀に注目する。木版図版によって、職人の作業や自然の現象が、あざやかに図像化され、目の前のできごとと照らし合わされる。それはかつてないヴィジュアル・プレゼンテーションだった。
しかも、こうした知識は、当時の学問の共通語であるラテン語ではなく、俗語で書かれた。ヨーロッパ諸国を移動し各国の学者と知識をやりとりする学者にとっては、共通語であるラテン語が必要だったが、各国にあって、実際の職場で作業を行い、技能を深めていく職人にとっては、俗語で書かれることが必要だった。活版印刷と木版印刷の組み合わせによって世俗のことばで書かれた書物は、当時の学者や限られた職人制度の間で秘密にされてきたさまざまな知識や技能を、広く公開することになったのである。
著者が、個々の人物と印刷・言語革命とをどのように織り込んでいくか、その一例を見よう。
著者は、芸術家の一人として、一五世紀末から一六世紀前半にかけて活躍した画家デューラーを取り上げる。が、注目するのはその画業ではなく、啓蒙書である。
デューラーの著した『定規とコンパスによる測定術教則』は、当時としては画期的な幾何学の知識や作図法に満ちた書物だったが、それはラテン語ではなく俗語(新高ドイツ語)で書かれていた。豊富な図版のおかげで、読者は測定に必要な形や補助線を、実際に目で確かめることができた。これは、デューラーが若い頃から手がけてきた、活版印刷と木版印刷の組み合わせによって実現された。
『測定術教則』では、定規を用いた作図法の手続きに重きが置かれ、作図を証明する幾何学の面倒な論証はしばしば省かれた。記されていたのは、定規の目盛りに頼る近似的な方法ではあったが、ものづくりにはそれで事足りた。それは一般の職人が読んで、じっさいに使うことができる書物だった。『測定術教則』は、いわば「大工の幾何学」だったのである。
しかし、著者は、デューラーの態度を、単に職人のための方便として見るのではない。むしろ、彼の計測に対する信頼、そして、論証による公理よりも目の前のできごとへの近似を重視する態度に、一七世紀科学の萌芽を見る。本書のことばを借りるなら、デューラーは、「自然にたいする数学の適用への道を拓き、数学の要求する厳密な証明にはかならずしもこだわらない物理数学の先駆者になった」のである。
著者は、芸術家と職人のあいだを橋渡ししたデューラーの例をはじめとして、この時代のさまざまな分野において、アカデミズムと世俗とをそのつど対比する。そして、言語革命と印刷革命に根ざした記述が、いかに知を公開し、一七世紀的科学へと結びついていったかを検証していく。
山本氏の前著「磁力と重力の発見」(みすず書房)では、遠隔作用の力にテーマを絞り込むことで、力に対する魔術的な想像力が扱われた。それに対して本書では、扱われる知の範囲はぐっと広がり、その記述は、外科医・鉱山業・商業数学・軍事革命・天文学・地理学と広範囲に及ぶ。一六世紀、あらゆる分野を席巻した知の公開についての記述は、前著とは異なる迫力を持って迫ってくる。
豊富な図版も本書の特徴だ。言語革命と印刷革命の起こった一六世紀は、見方を変えるなら、書物史の一大転換期である。本書には、一六世紀に出版された多様な分野の書物図版が随所で引用されて目を楽しませる。読書好きにはたまらない内容だ。
そのいっぽうで、アカデミズムと在野との対比に貫かれた分厚い論考を読みながら、現代のアカデミズムの端にいるわたしは、少し息苦しくなる。
もちろん一六世紀のみならず、現代にも、アカデミズムは存在する。しかし、その科学の最前線は、エリートや天才たちによって思いつかれた原理が、限られた集団の中で秘匿される世界ではない。むしろ、そこは世俗語の代表(?)である英語を共通語としながら、各国の研究者が、学会や学術雑誌という知の公開に向けて、そのアイディアと技術を競い合う場所である。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、遺伝子=DNAの発見から最近の生命科学の知見までをコンパクトに著した好著だが、この本のもうひとつの魅力は、科学者という職業のすぐれたドキュメントになっている点にある。野口英世に対する世評への違和感で始まる本書は、ワトソンとクリックでDNA学を代表させがちな生物啓蒙書とは一線を画し、エイブリーやフランクリンといった地道な研究者に光を当てる一方で、現代のポスドク生活の悲喜や、研究「チーム」どうしの激しい先陣争いを記述していく。それは、天才の発明発見を中心とした科学観とは全く異なっている。
構成要素が次々と入れ替わりながら生命は平衡を保つ。人々が次々と入れ替わりながら世界の平衡は危うく保たれている。著者の採る「動的平衡」という生命観は、じつは、著者自身が体験してきた研究のあり方と通底している。では、読者であるわたしはどのような平衡の下に、次の人々へと入れ替わっていくのか。そんな開かれた問いへと、この小さな本は誘ってくれる。
(評:細馬宏通「東京人」2008年12月号 p148-149)