大島弓子のマンガの多くは反転と再生、つまり転生の物語だ。
反転とは、この世にいると思っていた自分が、じつはあの世の住人であることを発見することだ。
再生とはこの世を発見することだ。
あの世にもいろいろある。お姫さまとかネコとかイカれた女の子だとか。
お姫さまになりたい女の子は全国で推定1000万人はいるはずだし、ネコになりたい女の子はその倍はいるはずだ。「女の子」は多かれ少なかれイカれていて、あの世とこの世のエッジに近いから。
でも、歯の抜けて腰の曲がったバーさんになりたい女の子となるとずっと数は限られる。はじめっからあの世の夢ならともかく、あるいはいっそあの世にダイブする夢ならともかく、受け身であの世に近づいていくこと、自分が老いていくことから、なるべく人は目をそらしたい。
「8月に生まれた子供」(「ロストハウス」角川書店)はそのような、老いの物語だ。
髪も歯も肌も、身体のすべての部分が確実に老いていく。さらにアタマまで老いていく。この世からあの世に押し出されながら、この世の重力をいっそう引き受けるように腰が曲がって行く。コーヒーカップのようにゆるやかで確実なめまいを伴い、ひとつひとつ記憶をもぎとられながら近づくあの世。「8月に生まれた子供」の種山びわ子は、ありかすらわからない鈍痛のような記憶に耐えながら老いる。
そして、この世はうすぼんやりとした景色に、「年号も日付も曜日もないただ不快な空間」に変貌する。
夢とボケの差はなにか。夢見る人は、時間律が混乱しているとみなされるが、ボケている人は、時間律が遅れているとみなされる。この世から見ると、ボケは、この世に遅れてできごとがやってくる現象としてとらえられる。遅れている分、ボケはあの世に近づいている。ボケながら自らのボケを外から発見しようとするわたしは、できごとを、常にあらかじめ終ったものとしてみじめな形でとらえることになる。そのような発見を重ねた末にさらに遅れて発見されるのは、この世に捨てられつつあるわたしの、みじめな姿だ。
だから「ボケ」を扱うマンガは「夢」を扱うマンガよりもずっときつい。その分切実な状況を背負っている。
耳の遠くなってしまった種山びわ子は、声の希薄な場所で、微かな意識の中で、ボケを反転させようとする。高みから落下する猫が我知らずキャット空中三回転をするように。この世に激突するのではなく、この世に着地するために。
男の子は彼女の変化にきづかない。
ただ彼の声が着地点を照らす。
声はくらがりで鳴る。
「ただ こっちをみてくれさえすればそれだけでいい」
種山びわ子はテクストを書く。
声よりもひそやかな、たどたどしいテクスト。
テクストは光の中で繰り返される。
「なにもいらない ただこっちをみてくれれば」
彼から手紙が届く。彼のことばは母親の声で読み上げられる。うすぼんやりとした音声の中でかろうじてとらえることのできる彼のことばを、読み手は受け取る。テクストで。ボケは外から見られるのではなく、ボケの中で転生する。ボケとしてこの世に生き返る。
いまは 秋
これは
男の子からの手紙
わたしは女の子で
十八歳
種山びわ子
という名前らしい
かつて大島弓子は「夏の終わりのト短調」で豆腐屋のラッパを鳴り響かせた。夏を経て、わたしは秋のしるしを手に入れた。
わたしは確かに、夏に生まれたのだ。
大島弓子のマンガにこれまでバーさんが出てこなかったわけではない。たとえば「葡萄夜/綿の国星」にはタマヤなるバーさん風のネコ(ただしオス)が登場する。
タマヤはさまざまな視点から描かれる。
まず、タマヤは世間の目からは「化け猫」であり、あの世の存在だ。
しかしタマヤ自身から見たタマヤは、あの世ともこの世ともつかぬ境界の住人だ。タマヤは飼い主であったおばあさんと、どの世でもない場所で出会うことができる。
一方、チビ猫の目に映るタマヤは、この世で見事に身を処す、つまりは「先輩」だ。
世間の視点とのずれは、タマヤをいつまでも境界にさまよわせる。タマヤがこの世を発見するきっかけは、チビ猫の視点にある。チビ猫とことばをかわしながら、タマヤはこの世を発見し、転生する。転生なった彼/彼女は高みから何度も回転して、若猫の歯をちらりと見せ、この世の住人であることを披露する。
「秋日子かく語りき」という作品にも、バーさんならぬおばさんが登場する。彼女は若い秋日子の身体にのりうつる。期日までおばさんはひとときの若さを味わい家族の愛情を確かめた後、ふたたび秋日子の魂といれかわる。
これらの物語で、登場人物たちはこの世とあの世のさかいを危うく往復しながら、最後には若さが取り戻される。
とりかえばや物語の終わり。
しかし、大島弓子は、秋日子の友人、薬子にこうしめくくらせるのを忘れない。
「花や蝶になりたいというのでなければ 我々はとってもちかい今生のうちにそれぞれの夢をかなえることができるのだと 固くそう思っていた。」
今生のうちに転生をなし得ること。花や蝶になるのでなく、今のこの身体をかかえて。その身体が、たとえ若やいだ花のような少女でなくとも。それはいかにして為されうるだろうか。
大島弓子を論じるにあたって誰もが思い出すのは、橋本治の「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」だろう。ここで、彼の論をブリッジしておこう。
橋本治は大島弓子を「ハッピィエンドの女王」となづけた。
どうして自分は夢見がちであるのだろう?
そう考えるのは、その人が自分の中に閉じ籠っている時です。そして、人が自分の中に閉じ籠るのは、自分と外側の世界との間に何か差があると感じているからです。そしてその状態を”分らない”といいます。
”分らない”ということを意識した時、人は”何故?”と考えます。そして”何故”と考え始めた時、人は自分の夢見がちといわれるその自分の内部に筋道をつけようとし始めるのです。
(中略)
”分らない”ことに苦しめられていた人間が一つの答えを見出し、”分った”状態がハッピィエンドでなくて何でしょう?
自分の世界と外側の世界との間に差を感じるとき、その人の世界は反転する。この世だと思っていた場所は自分の世界という「あの世」であることに気づく。
ところで、あの世/この世、あの/この、と遠近をつけるのはなぜか。
もし、自分の世界でよろしくやりたいと考えるなら、自分の世界こそ「この世」であり、外側の世界は「あの世」とすればいい。が、その考えをとらないのが大島弓子の倫理だ。「ロストハウス」におさめられた作品群は、自分の世界から外側の世界へのバンジージャンプ、ないしは月面軟着陸をめぐる話であって、けして完結した自分という世界をつくりあげる話ではない。
かといって、これはあの世の人がこの世にじょじょに慣れていくという物語ではない。あの世の人は、この世に近づけば近づくほどこの世との差に苦しむ。あの世の人に必要なのは慣れではなく発見だ。自分をこの世に再生させるできごと。具体的には「そこにいるだけでいい」というメッセージの発見。メッセージが発見されたとき、転生は成就する。
わたしが、この世の住人でないことを発見するたびに、転生は繰り返される。ハッピィエンドがくりかえされるごとに、より転生は深く、ある意味でシビアになる。この世への安住ではなく、この世への飛躍のための物語。
猫のサバとの、緩やかな日常を綴ったマンガを経て、彼女が「ロストハウス」のような作品群にたどりついたことに、ぼくはこの時代のきつさを感じる。時代のきつさ、とは、反転に求められる力の大きさと、再生の可能性の薄さのことだ。「ロストハウス」に収められた作品のほとんどが、震災ともオウムとも無縁な1994年に描かれていたことは、さらにこの時代の深刻さを的確に示しているように思えてならない。
そしてなお、これらのマンガが危うくハッピーエンドにたどりつこうとする、その倫理の強靱さは、ぼくを緊縛しながら、ぼくの深刻さへのこわばりを解こうとする。
では、この大島弓子のマンガで繰り返される転生がなぜ、電子テクストで問題になるのか。それは電子テクストが未だ、この世ならぬものであり、そして転生が為されていないからだ。
電子テクストはいまだ、「情報」であり不完全な「コミュニケーション」であるに過ぎない。現実−αとしていまだに電子テクストは語られている。たとえばインターネットブームのある部分には「インターネット=電子テクスト+α」という素朴な足し算が明らかに見られる。つまり絵も音も出るからテクストよりトクしたという考え方だ。
わたしたちはしばしば電子テクストを仮のものとして片付け、電話で、オフラインで、ノンバーバルコミュニケーションでこの世に復帰しようとする。電子テクストがこの世で息づくには、なによりもまずこの場で、転生が為されなければならない。どこでもない、この場で、ハッピィエンドは迎えられるべきなのだ。このGUI環境に乏しいテクストの場で。
「8月に生まれた子供」は世界をとりもどすようにゆっくりと思い出していく。そこでなしうる反転と再生の危うい賭けについて、わたしたちは電子テクストの中で何度でも考えていくことになるだろう。それは「秋日子かく語りき」には書かれなかった、秋日子と薬子の交換日記で語られるはずのことなのだ。テクストで。
(EV / 細馬宏通 96.03.06)