田口掬汀「絵はがきの使用法」


日本から見た日露戦争期の万国絵はがき事情

 予が従来蒐集せる材料によりて観れば、独逸は第一位にして仏国之につぎ、英と伊とは第三位を占むべく米国最も下れるが如し、独逸の如きは絵はがきのみは郵便条法の制限に立たしめてひとへに之が発達をたすけ、仏英その他の諸国また其が取扱を法規外におきてすこぶる寛大の措置を与へつゝあり、技芸開発の進路に何等の支障を受けざる自由の民は、あらゆる意匠と技巧とを傾けて、殿堂、寺院、名勝旧跡はもちろん、著名都邑の山水より地方特有の風俗、時事の風刺に至るまで千様万種の対象を写し出し、負けじと技を闘はす也、中には金属麦わら絹帛(けんぱく)等を貼附して装飾せる物もあり、かかれば伯林郊外の風景が倫敦熱鬧(ねっとう)の巷(ちまた)に落ち、巴里の豪華を描ける物が伊太利片田舎の野を指して飛ぶ。而して落花の如く散り行く其先に清新典雅の印象を残して不知不識趣味の交換が行はるゝ也
 されば之等諸国の各港は勿論名勝旧跡の地いたる処に其地の誇りを写せる絵はがき売店のあらざるなく、なかんずく独逸のキール仏国マルセーユの如きは絵はがき専売の店埠頭に櫛比すると云ふ繁盛也、船客は埠頭に上りて直に、観光の客は脚を勝地に入るゝと共に其地の絵はがきを購ひ、売店備え付けの筆を借りて日時姓名を記して発送す家郷その信を受くる者は居ながら往者が辿る山河名勝を辿るを得、また座上遠国の風俗儀式等に接して言外の風趣を味ひながら、漸々(ぜんぜん)に鑑賞眼を養ひ美術を解するに至る也
(田口掬汀(きくてい)「絵はがきの使用法」『詩的新案絵はがきの栞』 明治38年)

「趣味の交換」と無言絵はがき

 絵はがきは此(かく)の如くに使用せられて此の如き効果を来(きた)す也、絵はがきの使用法はかく画面を殺さゞることにあれば、使用者は趣味交換てふ点に留意して画面に文字を書くべからず、若し已むなく書かんとする時は、成る可く細小の字を用ひざるべからず、単に実用の点のみより観じてあたら画面に墨汁を塗沫(とまつ)する者如きは、到底美術を解するの能力なき者也、約言すれば之が使用法はひとへに趣味の交換の点にあり、而して来(きた)す処の効果は一代の美術的好尚を開発せしむるにある也、更に約して言へば、絵はがきの使用に巧みならざる国民は、大美術を産するの力なき也。
(田口掬汀(きくてい)「絵はがきの使用法」『詩的新案絵はがきの栞』 明治38年)

「絵はがきの時代」補遺