世界探検家菅野力夫の謎



絵はがきマニアにはおなじみ、世界探検家菅野力夫の勇姿

 萬里遠征の雄心歇み難く明治四十四年九月母国を辞し南満、朝鮮、台湾、南清の実情を察し進んで新嘉坡に上陸馬来半島を縦断し「スマトラ」を一週して遠く「ビルマ」に渡り更に印度に入り幽玄「ヒマラヤ」の高嶺を踏破し西蔵の国境を窺ふ駱駝の背上「ダール」の沙漠を横断し「ベルヂスタン」を経て亜細亜土耳古に向ふの途次彼斯に於て軍事探偵の嫌疑により官憲の護送する所となり孟買に至り之れを以て第一回の宿図を遂げ大正三年二月帰朝す ◎旅日二ヶ年六ヶ月!!◎行程三萬五千哩!! 帝都に留る半歳遍く天下名士の応援を得大正三年八月一日午砲一轟を期し東京日比谷公園音楽堂前を起点とし第二回の征途に就き黒龍江の結氷を踏んで北進し「バイガル」湖畔の険を越へ「イルクツク」市に達す時は同年十二月寒威零下実に五十度更に外蒙古売買城を訪ひ興安嶺を踏破して哈爾賓に至り南満より青島に渡り進んで天津北京を過ぎ河南省を経て大正四年四月の末漢口に至るの時偶々日支の風雲急を告げ己むなく漢口より揚子口沿岸を跋渉し上海に至るの途不幸病魔の冒す所となり旅行中止同年七月長崎着別府温泉に静養健康回復の後九月日比谷公園に帰着直に全国各地講演の途に上り大和民族海外発展指導の上に自覚せる使命の一部を遂行し、更に百尺竿頭一歩を進め第三回萬里遠征の途に上る近きに在り (原文はカタカナ・漢字文だが、ひらがな・漢字文に改めた。)



 ちょっとした絵はがきマニアなら、世界のいたるところでカメラにおさまっているあやしげな顔の男の写真を見かけたことがあるだろう。男は自称「世界探検家」であり、なるほどアジア、シベリア、南米、アフリカと、世界のいたるところで自ら写真におさまるのみならず、さらにそれを少なくとも数十種類の絵はがきにして喧伝している。何枚も見ていると、絵はがきというより、さまざまな場所でさまざまなポーズをとる怪異な髭男のブロマイドのようにも思えてくる。
 この男、すなわち「世界探検家菅野力夫」の奇妙なところは、これほどまでに絵はがきを発行した人物でありながら、なぜかほとんど無名である、という点にある。いまでも明治、大正期の絵はがきを扱っている店に行けば、必ずといっていいほど菅野の一枚や二枚を引き当てることができるほどの流通ぶりであるにもかかわらず、だ。シベリア単騎行の福島安正、南極探検の白瀬中尉といった明治の冒険家に比べると、菅野力夫のプロフィールは、未だほとんど知られていないといっていい。むろん、だからこそ絵はがきによって宣伝したのだ、という考え方もあるわけだが。

 それぞれの写真には世界各地の様子を記した文章が添えられており、ものによって彼の履歴も事細かに書いてある。絵はがきでこれほどテキスト部分の多いものは珍しい。
   自らの名前の前に必ず「世界探検家」と付ける自己主張の強さ、そして単に世界を見て回ろうというだけでなく、世界のあらゆる場所で写真におさまろうとする欲求、そしてさらにはそれを絵はがきというメディアで広めようとする情熱、これら鬱陶しいほどの自我の発散ぶりは、絵はがきを自己喧伝のメディアと看破した点において明治・大正史に燦然と輝いている、と言いたいところなのだが、実のところ、絵はがき以外に彼についての手がかりを掴みそこねている。広く諸氏の情報を掲示板でお待ちするゆえんである。


外蒙古踏破中ノ世界探検旅行者菅野力夫
中央棒ヲ手ニセルハ旅行者ニシテ其左右ハ露国人前列座セルハ蒙古人後方ニ群集ナセルハ駱駝ナリ


2001. Oct. 22

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