一枚の絵葉書から

(その15の1)

明治43年の東京大洪水

細馬宏通



其の後は誠に失礼にのみ打ち過ぎ候へ共何卒御許し下され度候
実は病気にて療養中にゐて之候(中略)
何れ近い中お目にかかるると存じ候
此の絵葉書は過日来の大洪水の実況にて
浅草は水深六尺・向嶋千住は廂を水が洗い申候


 東京本郷区から兵庫県に送られたもの。最初の文から、しばらく音信が途絶えていたことが察せられる。
 この葉書が送られた明治43年8月、関東地方には上旬から雨が降り続き、9日にはついに荒川が決壊、浅草をはじめとする下町は水浸しとなり、東京だけでなく関東各地で洪水の被害が出た。
 差出人はおそらく、無沙汰を詫びるとともに、この大洪水にあって自分の無事を伝えるために、この葉書を書いたのだろう。洪水の話が事実のみを伝えて簡潔なのは、相手に無用な心配を与えることを避けようという配慮なのかもしれない。

 文面の叙事的な調子に反して、ハガキの裏にはただならぬ状況が写し出されている。それは、水没した浅草公園大池の中之島だ。そこは池とも島ともつかなくなり、茶屋は床上まで浸水し、 木々の葉は水をかぶり、ふんどし姿の男たちが腰まで浸かっている。その男たちの腰のまわりに鉛のように広がる波紋までが、コロタイプ印刷で克明 に写し出されている。

 災害絵葉書の表には差出人の無事が伝えられており、無事を伝えねばならぬ理由は裏の写真に託されている。写真は、その実況の深刻さを示すことで、絵葉書が投函された理由を証明しているのである。

 この絵葉書のもうひとつ注目すべき点は、8月18,19日という消印の日付だ。

 当時の新聞記事で浅草の被害を確認すると、9日の時点での浅草は「千束町一、二、三丁目及び橋場、多摩姫、今戸、光月町、新谷町、柴崎町外(ほか)十ヶ町多少出水せしも未だ家屋に浸水せし箇所なし」(朝日・8/10)とあるが、まだ被害は深刻ではない。
 翌10日、東京市内各地で被害が広がっているが、浅草は「各町とも床下」(朝日・8/11)とあり、千束町や公園六区がいずれも床下浸水となっている。まだ写真ほどではない。
 しかし、翌日11日の午後8時には吉原堤以北の浅草下谷各町は全く水に浸され、「浅草公園凌雲閣横手に存在する千束町の新聞縦覧所碁会所其他曖昧屋の白 首連亦出水に肝を潰し是将(これは)た裾高く絡げて濁水の中に奔走し居たりき」という状態となっている(朝日・8/12)。
 さらに12日には「浅草、車坂より田島町、松清町、公園及び千束町は其後益(ますます)増水し避難大混雑を為し吾妻橋より雷門前は水見の野次馬押すな/ \の人でなりしに」(朝日・8/13)といったありさまだった。13日の新聞には人が腰まで浸かった宮戸座前の様子、向島への工兵隊の出動を写した写真が それぞれ掲載されている。
 したがって、浅草公園の被害実況を写したこの絵葉書写真の撮影日は、早くとも8月11日、おそらくは12日ごろであろうと考えられる。

 その写真が絵葉書として印刷され店頭に並び、さらにそれを購入した一人の東京人が文をしたため投函したのが18日、葉書はその日のうちに東京で消印を押され、洪水後の郵便事情が混乱する中、翌日兵庫に届き、19日の受領印を押されている。
 むろん新聞よりは遅い。が、当時の新聞写真にに用いられていた網点印刷のクォリティはけしてよいものではなかった。それに対して、個人が投函する写真絵葉書の鮮明さは、新聞とは比べものにならない。
 絵葉書というメディアは驚くべき速報性を持っていたと写実性を合わせ持っていたといえるだろう。

 東京大洪水と「本郷」発のこの葉書は、もうひとつのできごとを思い起こさせる。それは漱石の「思ひ出すこと」に綴られている、森田草平の話である。

 洪水の初期、森田草平は、早稲田に住む鏡子夫人から漱石への電報を言付けられて発信している。そのため、漱石が修善寺で受け取ったその電報には早稲田ではなく本郷局の名が記されていた。
 その後、鏡子夫人が本郷の親戚のところへいった帰り道、水見舞いのつもりで牛込区矢来町にあった草平のところへ行ってみると、「かねて見覚のある家がくしゃりと潰れていた」。幸い草平は顔に少し怪我をしただけで、家族とともに柳町の貸家に仮住まいをしていた。
 降り続く雨のために地盤がゆるみ、草平の家のちょうど裏手で崖崩れが起こったのだった。本郷や牛込は深刻な浸水被害からは免れていたが、だからといって安全とは限らなかったのである。

 修善寺で療養中の漱石は、洪水後の鏡子夫人からの手紙によって草平の消息をはじめて知った。新聞で連日報じられる東京の洪水は、手紙によって、漱 石の「密接の関係ある個人の消息」にまで迫ってきた。ひたひたと押し寄せる水の気配に合わせるように、漱石の病状は悪化しつつあった。

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20030817




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