最初は、妙な絵はがきだな、と思ったに過ぎない。20世紀はじめのヨーロッパの絵はがきには、ジャポニズムに影響されて日本人風のコスプレをした西洋人が写っているものが多い。この種の絵はがきは、名所絵はがきなどとまじって「Japan」の箱によくまじっている。この絵はがきもやはり、そうした箱の中にあった。
が、奇妙なのは漢字のサインが入っていることだ。そういえば、被写体の女性は、キモノを纏った体を優雅にもたせかけていて、ただ西洋人がキモノをつけてみました、というのではない余裕が感じられる。顔だちからすると西洋人のようでも日本人のようでもある。白黒のせいか値は高くない。由縁を感じて買ってみた。 写真の下には「Teiko Kiwa」とある。アルファベットのサインも確かにTeiko Kiwaと読める。とすると縦書きのサインは「喜波(?)貞子」か。宛て名は T. Uhlwauw(?)。裏は未使用。つまり、このサイン入り絵はがきは、郵送されたのではなく、いわばブロマイドがわりにTeiko Kiwa 本人からその場でサインして相手に手渡されたということになる。 テイコ・キワとは誰か。 ネットで検索するうちに、彼女はどうやら今世紀はじめに「蝶々夫人」役であたりを取ったオペラ歌手で、ヨーロッパではかなり有名だったらしいことがわかった。とはいうものの、どれもぼくに手に負えそうなことばでは書かれていない。 「喜波貞子」で検索すると日本語の本が出ていることがわかったのでさっそく入手した。松永伍一「蝶は還らず プリマ・ドンナ喜波貞子を追って」(毎日新聞社 1990)。 絵はがきの女性、テイコ・キワこと喜波貞子の生涯を追ったノンフィクションで、文献だけでなく関係者のインタヴューも含めてよく調べられていて、読むうちに絵はがきに対する愛着は深まった。 「蝶は還らず」によると、喜波貞子は1902年(明治35年)11月20日、横浜に生まれた。母方の祖母が日本人、祖父はオランダ人で、父親はオランダ人商人だった。西洋人らしい顔立ちの中にどこか宝塚女優のような雰囲気があるのはそのせいだろう。1920年にミラノに渡り、声楽のレッスンを積んだ後、1922年、「蝶々夫人」のリスボン公演にマダム・バタフライ役でデビュー、以後、ヨーロッパで次々と公演を行い、三浦環をしのぐ人気を得た。後にやはりオペラ歌手だったポーランド人ラヴィタ・プロショフスキーを夫とし、戦後はニースで暮らした。1983年にそのニースで亡くなっている。 これで、絵はがきの衣装がなんなのかははっきりした。このコスチュームはマダム・バタフライのものなのだ。 最初に書いたように、20世紀初頭の絵はがきには西洋人がキモノを着た写真ものがたくさんある。 その源流はおそらく吉見俊哉「博覧会の政治学」(中公新書)に書かれているように、1867年のパリ万博や73年のウィーン万博での日本の出展にある。 絵はがきは1870年代に登場し、まさにこのジャポニズムの歴史に重なるようにメディアとして流通した。 日本は、扇や傘を伴い日本髪にたっぷりした袖のキモノをまとった女性、という紋切り型として現れ始めた。 このブームはおそらく、1904年にプッチーニの「蝶々夫人」が発表されてからさらに加速したと思われる。たとえば左下の絵はがきは、1905年の新年絵はがき。日本人カップル(?)をあしらったものが現れているが、女性の顔は洋風だ(左)。それとも、これはピンカートンとマダム・バタフライをなぞったものだろうか。右下は1918年のスタンプの押されたもの。女性は羽に日の丸をつけ、マダム・バタフライを意匠化したような格好をしている。 |
イラストだけではない。「蝶々夫人」発表の前後から、奇妙な絵はがきが目につくようになる。それは西洋人の演じる日本人写真、つまりコスプレ絵はがきだ。蝶々夫人は、単にジャポニズムを助長しただけでなく、「西洋人の演じる日本人」という奇妙なイメージを流通させるのに、一役買ったらしい。
こうした絵はがきの衣装や調度はしばしば日本以外の東洋の国々のものと混じって、無国籍な雰囲気を産み出した。 |
ここでもう一度、テイコ・キワの絵はがきを見てみよう。彼女はキモノに扇、そして頭には日本髪を結っている。この姿は、マダム・バタフライの扮装であるだけでなく、19世紀末以来のジャポニズムの意匠を汲んでいるとも言える。 そしてその一方で、それまで西洋人のなぞってきた日本のイメージとは少しく異なる雰囲気を醸し出している。その一因はキモノの着こなしにあるだろう。絵はがきのヨーロッパ女性は、キモノの帯をしばしばコルセットのように締めて腰上のくびれを出し、上半身を傾げてポーズを取る。これに対し、テイコ・キワは、太めの帯をゆったりと身につけて、体全体をあずけるようにしている。そのことでかえって、体全体をあずけても大丈夫なほどの華奢さが感じられる。 |
その写真の上にペンが走っている。アルファベットは、体をあずけるのを導くように斜めに走っている。いっぽう漢字はそれを支える柳のように縦に流れている。「喜波」の字は枝葉のように散り散りになり、「貞子」の字はたおやかな幹のように下に向かって伸びている。何度も繰り返し書かれたサインなのだろう。
世紀末から20世紀初頭にかけて、絵はがきは、日本女性によるジャポニズムの移出→西洋女性によるジャポニズムの模倣、という流れをたどった。1920年代のテイコ・キワは、自らの蝶々夫人の姿の上に、流麗なアルファベットの線と樹木のような漢字の線とを交錯させた。 イタリアで声楽の修業を積んだテイコ・キワは、ベル・カントでプッチーニ作曲のイタリア語を優雅に歌ったという。その声を、今度、レコード屋で捜してみたいと思う。 20020403 |