「虞美人草」

---- 対比の博覧会 ----


「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」と甲野さんがすぐ但書を附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮の様だろう」
「本当に竜宮ね」

(中略)

イルミネーション

「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。丁度正面に見える。此所から見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君は一寸躊躇した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「冠に紅玉を嵌めた様だ事」と藤尾が云う。
「成程、天賞堂の広告みた様だ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向いた。

(中略)

「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼は悉く水と橋とに聚った。一間毎に高く石欄干を照らす電光が、遠き此方からは、行儀よく一列に空に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で埋っている」
 と宗近君が大きな声を出した。

(夏目漱石『虞美人草』)


  渡月橋

 上は「虞美人草」の会話に登場する東京勧業博覧会(明治40年)のイルミネーションを写した写真絵葉書。いちばん右の中国風建築が台湾館、中央右の巨大なイルミネーションが外国製品館。中央左の三つ屋根が三菱館、いちばん左が機械館である。
 下は観月橋を東南の岸から写したもので、向こう岸にはいくつかの出品館が並び、いちばん右に機械館の端が写り込んでいる。

 現在の不忍池では、西側を半月にえぐるように道がつけられている。が、これをもとに上の文章を読むと、四人がイルミネーションをどこから見ているのか、そして「人で埋っている」橋とはどこにかかっているのかが分からない。
 そこで、当時の博覧会の地図を見て位置を確認しておこう。



「東京勧業博覧会全図」(明治四十年一月二一日発行、東京毎日新聞社)から

 すると、現在と異なり、弁天堂には西側からまっすぐ橋がかかっていることが分かる。ここからなら北側のイルミネーションはよく見えるだろう。それをめがけて人が押し寄せるのもなるほどうなずける。

 「小野さんは孤堂先生と小夜子を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の祠を抜けて圧して来る。向が岡を下りて圧して来る。」
  いっぽう、橋とイルミネーションを同時に見わたしているところを見ると、甲野、藤尾、宗近、糸子の四人は池の南端にいるらしい。彼らはここから池をぐるり と回って、北側の茶店で休むことになる。弁天堂を過ぎ、ようよう橋を渡り終えた小野さん一行も同じ茶店にたどりつく。地図の池は広大で、イルミネーション を映して余りあるかに見える。橋の上の人物は卑小だ。


 『虞美人草』では、人の思考や意識や性格が、その人の所持品と所作に表わされる。
  だから、『虞美人草』には絢爛たる装飾の描写があちこちに登場し、高速度撮影したかのような微細な時間の所作が表われる。金時計を持っている藤尾はそれだ けでも奢った存在だが、それを「右手を伸べて、輝くものを戞然と鳴らすよと思う間に、掌より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰い留められ ると、余る力を横に抜い」たりすると、もうこの上なくイヤミに奢りたかぶっている、というわけだ。

 『虞美人草』ではしばしば対比が用いられる。

  人に示すときは指を用いる。四つを掌に折って、余る第二指の有丈にあれぞと指す時、指す手は只一筋の紛れなく明らかである。五本の指をあれ見よと悉く伸ば すならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べた様な女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。然し変だ。物足らぬと は指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べた様な女である。足るとも云えぬ。足り余 るとも評されぬ。
 人に指点す指の、細そりと爪先に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点を構成る。藤尾の指は爪先の紅を抜け出 でて縫針の尖がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れが ある。


 所持品や所作の描写は何に使われるか。それは対比に使われる。

 『虞美人草』では登場人物のうちの二人を取り上げては、つぎつぎに対比していく。対比は、必ずしも二項対立のようにお互いに排除的とは限らないし、じつは勧善懲悪である部分は少ない。では、この小説が「勧善懲悪」的という印象をしばしば与えるのはなぜか。

  『虞美人草』では、静や動、善や悪といった内面をもった人物が比べられているというより、むしろ、対比が先にあってそこからあたかも内面があるかのように 書かれる。つまり、登場人物の善悪がはっきりしているから「勧善懲悪」的なのではなくて、まず対比させそこへ登場人物に内面を割り振っていく書き方が「勧 善懲悪」的なのだ。

 たとえば先の引用では、まず所作が先行する。糸子という女が五指を揃えて指すのではない。揃えて出した五指があって、 糸子はあたかも揃えて出した五指のような女である。では、藤尾はあたかも細そりと爪先に肉を落したような女なのか。そうではない。藤尾は細そりと爪先に肉 を落すのである。発端はじつは所作の対比である。糸子は所作になぞらえられた。にもかかわらず、藤尾は所作を為した。所作の対比は内面の対比の比喩であっ たはずだ。それが途中で、あたかも内面のある人が内面にふさわしい所作を為したかのようにすり替えられている。
  こうしたことからもわかるように、『虞美人草』の登場人物が「つくりもの」っぽいのは、各登場人物が内面ではなく対比の産物だからである。博覧会のイルミ ネーションを見た糸子が「空より水がきれいよ」言う。空は虚飾に過ぎず、水は反映に過ぎない。しかし、糸子はあたかも、反映の方にこそ内面の真実があると 指摘するかのようである。

 『虞美人草』の対比には同時代の発明品(ないしはその同義語)がよく使われる。活動、パノラマ、観覧車、イルミネーション。発明は、移動の速度と 方向を変革し、かつては見えなかった面(光景)をあらわにする。博覧会とはそのように可視となった面を見せる見世物である。面が誕生すると、世界は外面と内面に切り分けられる。『虞美人草』の語り手は外面にいる観察者となり、内面を見透かす。

 『虞美人草』とは対比の博覧会だ。漱石はこの小説で、発明の力を借り、所持品と所作による対比を行い、それを内面の対比にすり替える。そこでは作者の「地」の文が幅をきかせている。『虞美人草』の登場人物たちは、まだ作者の解説の手の内にある。

 しかし、やがて漱石は硝子戸の中という内面に閉じこもり、外面を見透かすようになるだろう。

20020115
20030814(絵葉書図像を足して改訂)


表紙 | 口上 | 総目次 | リンク | 掲示板