パサージュ・ブラディは、19世紀はじめに店主であるBradyによって計画され建てられた。当時は最先端のブティックが100軒ほど並ぶ場所だったが、19世紀半ばのパサージュの衰退とともにさびれた。
そこにインド・パキスタン人のコミュニティが出来るようになり、現在は料理店がひしめくパサージュになっている。インドもパキスタンも出す料理は似てるので区別はつきにくいが、ハラル済みの印があったり「カシミールのバラ」などという店名になっているのはパキスタン系だろう。ここではヒンズーとイスラムは緩やかに合流している。
ガラス天井はずいぶん汚い。でも30Fでうまい料理が食えるからだろう、多くの店は繁昌している。うまくて安ければ人は来るし、人が来れば古びた天井にも風情が出る。美しく飾ったものの閑古鳥を招いている日本の商店街は、ここを見習って、コミュニティを作りそこねている移民の人たちに町づくりを手伝ってもらえばいいんじゃないだろうか。
テーブルのそばでスズメが落ちたパン屑をついばんでいる。ガラス天井の一部が開いていて、そこから入ってきては食事にありついている。パサージュスズメ。部屋の中に戸外をもたらすもの。
パサージュは単なる19世紀的ノスタルジーの対象でもなければ、政治と無関係なたがの緩んだ地帯でもない。
おりしも世界貿易センタービル崩壊の直後で、パリではあちこちに小銃を持った軍人や警官を見かけるようになった。パサージュの入口にも警官が時折足を踏み入れては立ち去っていく。パキスタンは、イスラムにしてアメリカへの協力を強いられている、現在もっとも微妙な立場にある国だ。呼び込みの男は、警官たちを煙たそうな目でちらと見ながら、気がつかない風に向かいの店の呼び込みの男と談笑したり鼻歌を歌ったりしている。それでも、通りすがりの者たちが少しでもメニューに目をやると、抜け目なく、「いかがですか?」と近づいて声をかける。ここにはクリスチャンもユダヤも無宗教の日本人も食べに来ている。
あちこちビデオで撮っていたとき、パキスタン料理屋の前にいたウェイターに呼び止められた。
「聞け。オレはここで働いている。この中で撮る分にはいいがな、外では撮らないほうがいい。じゃないとカメラをぶん盗られるぞ。中はいい、でも外はだめだ。分かったか?」
分かった、ありがとう。そして、さらに分かったことがある。パサージュの中の方が安全だという感覚があること。ここは表通りよりも、目が届きやすいこと。そしてここは、店の前を儀式のように往復している呼び込みたちに見守られ続けている部屋であること。
呼び込みたちは客を呼ばなければならない。通りすがりの者たちを敵味方として区別するのではなく、首尾よく客としなければならない。「War against Terror」と、「War」を掲げてしまうアメリカとは対照的に、このパサージュでは生活の糧を得ようとする呼び込みたちによって、イスラム的融和が不断に更新され続けているのだ。