シンメトリー写真について

Oaxaca diary


 旅行中もシンメトリー写真をあれこれ作り続けて、自分なりに構えができてきたような気がするので、ここでちょっとまとめておく。すでに「ジョン・シンメトリー」中の議論や作品で実践されていることと重複するが、個人的なメモということでご容赦のほどを。
まず、写真をシンメトリー化することで得られる現象をざっと分類してみよう。

儀礼化:ランダムに見える現象や無意識的な行動ほど、シンメトルことでかえって儀礼性が増す。たとえば雲やテクスチャをシンメトるときの感覚。あるいは無意味な動作をシンメトったときに感じられる意味の強迫。
神殿化:中央に強い対称性が表われたときに特徴的な現象。
境内化:中央が強い空白が現われたときに特徴的な現象。
世界の私物化:鑑賞者に向かって線が集まるときに特徴的な現象。
私の発散化:鑑賞者から線が遠ざかるときに特徴的な現象。
パノラマ化:とくに横長の風景をシンメトルときに特徴的な現象。
デカルコマニー化:抽象的な図形に特徴的な現象。
地溝化:対称線に向けて世界が吸い込まれるように見える現象。乗り物、人が中央に向いているときに起こりやすい。とくに事物の一部が対称線付近でカットされると強い印象をもたらす。
嶺化:地溝化の逆。
象形化:写真の端に映り込んでいた断片が、シンメトリ化によって宙に浮いたように対称線付近に現われる現象。木の枝、信号などによく見られる。
仮想光源の出現:影の方向がシンメトリーになるため、中央、もしくは両端にありえない光源が感じられる。
仮想コミュニケーション:とくに横を向いている者どうしの間で起こりやすい。
ロジックの破綻:不連続であったものが対称線を中心に連続させられることによる、論理の破綻。影と実体が揃わない。理不尽な物体が現われる。などなど。たとえば真横に写った竹刀を途中からシンメトってみよ。

 最初は、上にあげたような分類の発見がおもしろいような気がしていたのだが、じょじょに、そうではないことがわかった。つまり、分類にあてはまるからおもしろいのではなくて、上の分類があらわれるのに伴って、どのような無意識的な事物や現象が意識としてポップアップするかがおもしろいのである。逆に言えば、特定の分類を狙って作ったシンメトリは見ていてじきに飽きてしまう。

 写真のほうが絵よりもシンメトリにしたときの衝撃が強いのは、おそらく写真というメディアが「写すつもりじゃなかったものを写してしまう」機能を持っているからだろう。写真には撮影者の意識から漏れるものが多いのだ。
 いっぽう絵画では、書くというプロセスの中で描き手はかなり意識的に事物や現象を取捨選択することを強いられる。だから写真に比べるとより発見が少ない。
 文字は対称性に対してとても耐性が強い。通常の事物は対称にするとどちらの側も等価に感じられるが、文字だけは、片方が正、もう片方が逆に見えてしまう。わたしたちは文字認知がいかに文字のもともと持っている非対称性に強く依存しているかがわかる。

 ところで、フォントの整った文字をシンメトリにしたときは、ただの鏡文字にしか見えないが、書き文字をシンメトリにすると、オリジナルと対になった紋様に見えることがあるから不思議だ。シンメトリ化は、文字本来の持っている意味や発音とは別の次元、すなわち文字に含まれる線の癖、あるいは筆蝕といった、より身体的かつ意識の及びにくい現象を浮かび上がらせる。


(Dec. 26 2004)


 

オアハカ記 | to the Diary contents