スケッチブックからアニメーションへ —活発な想像力を持った平凡な芸術家—
Winsor McCay 1927 

 どんな平凡なアーティストも、活発な想像力さえあれば、カートゥーンを描くことができます。まずはパースペクティヴ、すなわち、線と形と影をマスターすることです。地面に立っている人を描こうと思ったら、それをまるでそこにいるように描きなさい。建物や、はしけや汽車を描きたいと思ったら、まるでそれがそこに存在するかのようにすることです。絵を描くには第六感、存在を感知する力が必要です。それさえあれば、たとえば、よくできたテーブルは四本の足で床にしっかりと立っているのであって、ただ空中に突き出て滑りつつあるのではないことが分かるはずです。
 汗水垂らして描いては消しているカートゥニストをよく見かけます。問題は、彼らが、自分の描きたい対象をありありと描けていないことなのです。これに対して、A.B.フロストのような人(この人はアメリカ史上もっとも偉大なコミック・ドラフトマンだと思います)は、自分で何をしているかがわかっている人を、ありありと描きます。彼は背景やパースペクティヴに注意を払っています。
 最近の若い人はペンやインクの技術がなくても描けるのではないかと錯覚してコミックの世界に飛び込みます。ほんの、ごくわずかの人はそれでもなんとかなるでしょうが、たいていの人はアマチュアのレベルを脱することはできないでしょう。わたしがもう一度やり直せるなら、まず最初にドラフトマンシップとしての勉強を徹底的に積みたいと思います。人体、裸体の場合と着衣の場合をどう描くか、それをどのようなセッティングの中に収めるかを学ぶでしょう。

 コミック作家は、キャラクタを発明する必要はありません。おかしな人は、あなたの周りにこそ居るのです。路面電車の中に、歩道に、あらゆる場所に。目をしっかり開け続けましょう。どこを見回しても、おかしな格好の人や子どもが見つかります。舞台に上がればそれだけで頭がちぎれるほど笑いを誘う人も、通りにいるとなぜか気づかれないものです。そんな人はたくさんいます。
 一番大事なのは、つまるところ、ドラフトマンシップの知識を身につけ、自身の想像力を培うことです。雑誌や本や指南書も役には立ちますが、結局自身の独創力がいちばん重要です。
 ほとんどのカートゥニストは会社で働くのがよいようです。科学者や哲学者には静かな場所がいいでしょうが、カートゥニストには、仲間と肘つきあわせて、人間の生業を身近に感じることが必要なのです。どんな偉大なオーケストラ曲よりも、仕事場で聞こえる小さなざわめきのほうが価値があるのです。もちろん、ほとんどのカートゥニストは仕事の「一部を」家で行います。しかし、そうなると、無邪気な第三者からの刺激的なアドバイスを失うことになります。ところでわたしの住処は、夏にはロングアイランドのSheepshead Bayにあって、あとはブルックリンのセント・ジョージア・ホテルです。

 ちょっとだけアドバイスを。よい仕事をしたいと思ったら、食事を慎むこと。お金のかかるギトギトの濃い味付けの口当たりのよいものは慎みなさい。ルイ16世は、フランス革命の間、群衆から逃れていましたが、後に捕まってギロチンにかけられました。あまりに豪華な食事を望んだために、田舎の人がその変装を見破ってしまったのです。ぜいたくな食事をし過ぎると、だめになるキャラクターは一つでは済まないでしょう。
 いつでも描き続けること。スケッチをとっておいて、自分がどれくらい進歩したかをチェックしなさい。人物のプロポーションになじむこと。なんの変哲もないキャラクタが、正確で適切な背景を持っていればこそ、初めておかしみを持つのだということを覚えておきましょう。
 いつも最先端でいること。流行の服、車などを研究しましょう。あなたがもしいまのカートゥーンに1914年モデルを描いたら、人々はすぐに気づいて「あいつも時代遅れになったな」などと言うでしょう。
 昔、わたしは踏切を安全に渡ろうキャンペーンのための絵を頼まれたことがあります。紙に描き始める前に、わたしは新聞をざっと見渡して、最新のスピードワゴンの写真を探しました。記憶を頼りに最近のモデルを描くことも簡単にできたのですが、わたしはキャンペーンをもっとも効果的に見せたかったので、出来る限り新しいスタイルでいこうと思ったのです。

 もう一つアドバイスを。キャラクタを選んだら、それにこだわり続けること。わたしはリトル・ニモを書いているときほど幸せなことはありませんが、これはもう20年も前に作ったものです。実際、私はいつでも自分の仕事を楽しんでいます。

 わたしが初めて新聞の仕事をしたのはシンシナチ・コマーシャル・トリビューンで、28のときでした。そこで2年半いる間に、いわゆるスケッチの仕事を割り当てられました。火災、殺人(現場にはX印)、会議などなど。
 それからシンシナチ・エンクワイアに5年居ました。主に一般職です。辞める直前に、"Tale of the Jungle Imps" (ジャングル小僧物語)というカラーページのコミックを描いて、これで、ニューヨークの各紙からオファーが来ました。8年間、ニューヨークヘラルドに勤めて、そこで、Sammy Sneeze, Hungry Henrietta, Dreams of the Rarebit Fiend, Poor Jake, Dull Care, そして、Little Nemo in Slumberlandを描きました。
 それからニューヨーク・アメリカンに転職して、ハースト社に12年いました。最初はコミックを描いてました。すると、アーサー・ブリスベインが「マッケイはおもしろいのではなくシリアスなのだ」と言いました。それでブリスベインの社説のイラストを半ページ描くようになりました。その間にも、リトル・ニモを復活させてほしいというたくさんの手紙をもらいました。ハースト社の人々もそれを望んでいましたが、ヘラルド(いまのヘラルド・トリビューン)が著作権を持っていて、ヘラルド・トリビューン(新聞社兼会社組織)のために描かなければ復活を許可しませんでした。結局わたしはこれに同意しました。

 わたしには二人の子どもがいます。ウィンザーJr.、彼もいまはカートゥーニストです。それからマリオン、いまではレイモンド・モニッツ夫人、オライアン将軍27連隊の少佐夫人です。マリオンには息子が一人いてレイモンドJr.といいます。

 家族の歴史にはいろんなことが起こります。わたしにとっての事件はといえば、ウィンザーJr.がまだ小さかった頃、通りで「マジックピクチャー」(映画の祖先)を何枚か拾ってきて、私に見せてくれたことでした。
 その広告用のフリップブックのひとつを見て、初めてわたしは動く絵を作ることの可能性に気づきました。その写真は、レインコートをまとった男が右手を挙げ、喉元を緩め、そしてまた右手を下ろすところまでを描いた簡単なものでした。
 写真でできるのなら、絵を描けばもっとおもしろいことができるはずだ、とわたしは確信しました。半透明の紙束を用意して、作業に取りかかり、すぐに24ページの動くマンガ motion cartoonができました。それはリトル・フリップを描いたもので、彼が煙草を口にくわえてぷっと煙を吐くところでした。30分間熱中して描いたスケッチに、わたしは満足しました。animated cartoons を作って、撮影された写真映画 photographic filmと同じようにスクリーンに投射することができるのではないか。そして、1時間後には計画を立て、これに従ってわたしは最初のanimated cartoonを作り上げることに成功しました。

 これを出発点にして、わたしは、現代的なカートゥーン映画 the modern cartoon movies を進化させました。わたしはリトル・ニモが動く4000枚の絵を描きました。これはかつてのNY、ハマースタイン劇場で公開されました。登場するのはリトル・ニモ、フリップ、プリンセス、ドクター・ピル、そしてインプで、絵に描かれたドラマの中で動きます。それはまさに生きているように動いたのですが、観客は、それは描いたのではなくて、実際の子どもの写真を使ったのだろう、と言いました。
 それで次の作品では、そんな可能性を取り除くべく、とんでもない蚊の化け物が、寝ている男を求めて鍵穴から入り込み、無目ごしに男に飛びかかるところを描きました。観客は喜びましたが、今度は、カメラの前で蚊にワイヤーを付けて動かしたのだろう、と評しました。
 なんとも悲しむべきというか、むしろおかしいというか。わたしは三回目の挑戦にしてようやく成功しました。疑り深い者どもを断固満足させようと決意したのです。わたしは自分の生みだしたガーティー、1300万年前に生きていた先史時代の怪物を描いたのです。わたしはガーティーに岩を食べさせ、木を根こそぎにさせ、象を海に投げ込ませました。湖を飲み干させ、鞭を鳴らして寝転んだりごろごろさせました。ついに人々は、自分が手で描かれた絵を見ていること、その絵の中で、動物がまるで生きて、息づいているように見えることを認めました。

 わたしはこれをヴォードビルとして自身で演じました。私は1910年にanimated cartoon を発見し、リトル・ニモを作り、蚊を作りましたが、ガーティーはシカゴのパレス・シアターで1914年に上映されて本格的に成功し、次週にはニューヨークのハマースタイン劇場でかかり、これは7週間にわたって上映されました。その後、ガーティーとわたしはミシシッピ東部のあらゆる大都市をツアーして、この新しい発明を何千もの人々に説明したのです。
 最初の上演時で、わたしは作品を、一つの新しい創造物として説明しました。ガーティーはわたしの命令とともに洞窟を出てスタントを演じます。恐竜が最初に絵に現れると、観客はそれは紙でできた張り子の中に人が入って、書き割りの前にいるのだろうと言いました。しかし、作品が進むにつれて、人々は木の葉が風に揺れており、水面にはさざ波が立ち、象が投げ込まれると水しぶきが立つことに気づきました。これでようやく観客は、自分たちがまったく新しいものを見ているのだということ、この出し物が何枚もの絵でできていることを納得したのです。それは四年間のたまもので、三つのシーンのanimated cartoonとして仕上げるためには、何百、何千枚とかかりました。
 つまるところ、五年間というのは、新しい発明を打ち立てるには比較的短かったといえるでしょう。いったん打ち立てられると、それは世界中で使われることになり、わたしは自分の持っている知識を、このアイディアの創案者として、この研究に興味を持つすべてのドラフトマンたちによろこんで提供しました。多くの人がその発展のために働けば、それだけ早く、完璧な結果が得られることになるだろうと考えたのです。

 かつて、人々は画廊に行き、偉大な絵画を見ることにお金を払いました。「晩鐘」が展示されると、人々は偉大な作品を見るために一ドル払いました。現代の芸術家はもっと前を向くべきです。人々が、ただ止まっている絵画を見るのでは満足せずに、自ら車を飛ばして田舎を歩く時代が到来しつつあります。
 ベン・ハーはアニメーションとして描かれ、馬たちは止まった絵ではなく、走らねばならなくなるでしょう。馬が駆けるのを見たことがある人は、実際に駆ける馬を見たいと思う時代が来るでしょう。教育された人々は、じっとしている絵画に、じきに興味を示さなくなるでしょう。
 新しいアイディアを生みだすだけでなく実行に移すだけの能力を持った才能の持ち主にとって、いまや未開拓の新たな可能性を持った分野が開けているのです。
 この分野で必要なものは、必ずしもユーモラスなものに限りません。じつにさまざまな方法が可能となるでしょう。もちろん、込み入った描画作業が必要で、そのためには多くの労働力がいります。わずか数分の作品のために千枚単位の絵を描くのですから、その作業は途方もなく見えるでしょうが、まさにそのおかげで、多くの労働者の雇用を確保することができます。
 animated cartoonsは、場面を次々に思いつき、ジョークを展開させ、動作を考え、そこにユーモアを注ぎ込むことのできる人にとってはまたとないチャンスでしょう。その人は熟練したドラフトマンかもしれないしそうでないかもしれない。しかし少なくとも、絵の基本を知っている必要があるし、知っているほどよいでしょう。
 となると、実際に絵を描き、それをおもしろくかつ魅力的に見せることのできるドラフトマンが必要になってきます。その場合は、その人の専門的なドラフトマンシップと知識に応じて高い報酬を払うことになるでしょう。さらには、ドラフトマンによって描かれた絵のディティールを正確にトレースする職人も必要になるでしょう。
 まずは下の地位からスタートすれば、自然と、技術や才能や指導力を求められる地位にあがっていくことになります。わたしの考えるに、ここには、ドラフトマンの訓練育成や、独自の物語を作りあげる人のための新しい分野が開けていると思います。

 対象の動きを何分の一秒かの短い断片へと分解し、輪郭の連鎖を描かなくてはなりません。そして、それがスクリーンに映されたときにそこで起こる動作は適切なタイミングになっている必要があります。
 ガーティーが寝転がっているときに、わたしは彼女に呼吸していてほしいと思ったので、わたしは時計をいろいろ試したり止めたりしながら、彼女がどれくらいの長さで息を吸い込み、吐き出すかを判定しました。正確な時間がわからずにいたのですが、ある日、仕事場で、大きな時計の秒針用目盛りを見れば、正確な時間感覚がわかることに気づいたのです。わたしは時計の前で息を吸って、吐いて、自分が思うように恐竜の呼吸を真似るならば、彼女は、じつに簡単に呼吸するのだということに気づきました。恐竜の腹を蛇腹のように伸ばしたり縮めたりして、呼吸を表現することにしました。
 ガーティーが呼吸をしているとき、わたしはたった一回の呼吸を描き、それを15回にわたって撮影しました。

 ユーモラスなテーマは魅力的ですし、ユーモラスな人物を作ってユーモラスなことをさせるのがいちばんおかしいに居待っています。人々はこの種のことが好きです。若い人はヴォードヴィル芸的な傾向があって、まずはユーモラスなanimated cartoonの路線からスタートしがちなようです。
 わたしは、アニメーション芸術に携わる人には、何がもっともおもしろいかということについてそれぞれ独自の考えがあると常々言ってます。animated cartoonnはまだ幼年期にあるに違い有りません。もっともっとすごい作品ができてくるはずです。そこにはすばらしい可能性があると思いますし、自分でもそうしたものを生みだしたいと思っています。芸術家というものは、理想の生活を描くものなのかもしれません。Moving picutureのプロデューサーは、これまでは、現実を再生産してきたといえます。芸術家は、自分の理想に人生を注いでもいいのではないでしょうか。

 いまのところ、すべての過程は未発達で、少しずつ進行します。偉大な芸術はいままさに発展中なのです。ルシタニア号が沈んでからというもの、わたしはコミックを描く仕事を中断し、二年間掛けて、25000枚の絵を描いて、この悲劇をanimated picturesにしました。
 この作品で、わたしはペンとインクだけでなく、ウォッシュとクレヨンも用いました。撮影に来たオペレーターが、129枚の絵を一時間かけて撮影しても、それが映写されるときには8秒にしかならない、とこぼしました。わたしはといえば、それを描くのに8週間働きづめだったのです。何ごともそうですが、アニメーションにおいても、地道に働いてこそ完璧さが得られ、すばらしい結果が得られるのです。

(細馬宏通訳)

原文 "How I Origenated Motion Picture Cartoons." Cartoon and Movie Magazine 31 pp.11-15

Fantagraphics社の"Daydreams & Nightmares. The fantastic visions of Winsor McCay"に再掲されたものを用いて訳した。

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