「わろてんか」の人々はなぜ寒々しいのか

 10/31の『わろてんか』。北村家のごりょんさんは、ライバル店が安い米を混ぜて売っているのを知り、「お客さんの信頼を裏切るような真似をしたらあかん!それが、商いをするもんの誇りちゅうもんや」と言い放つ。てんは、まるで毅然とした商売人のあり方に突かれたように、ごりょんさんを見る。演じている鈴木京香も葵わかなも、よい表情をしている。てんの表情からすれば、北村家のごりょんさんは、遊び好きの夫が残した借金に苦しみながらも、派手に商いをするのではなく、客の一人一人を大事にする実直な商売人として描かれようとしているらしい。

 にもかかわらず、ごりょんさんの台詞がちっとも響いてこないのは、この劇の中に北村家を信頼してくれるような「お客さん」がついぞ現れたためしがなかったからだ。視聴者が思い出そうとしても、北村家の得意先も、なじみの客の一人の名前すらも浮かばない。てんと楓との争いであれほど力添えをしてくれたインド人の名前も思い浮かばない。そういえば彼は、どこに行ってしまったのだろう。

 翌日から、ごりょんさんはなぜか米を買う客に塩昆布を配り始め、客に感謝される。作り手はおそらく、ごりょんさんの言う「誇り」を描こうとしているのだろう。しかしその意図に反して、ごりょんさんはまるで、自分のことばの薄っぺらさをあとから取り繕っているように見える。作り手が、ごりょんさんに言わせた台詞にある「お客さんの信頼」をあとから付け足しているからだ。

 客だけではない。薬種問屋といい、この米問屋といい、ほとんどの使用人たちはその場その場の都合で短い台詞を言わされるだけで、使い捨ての背景のように劇に現れ、片付けられていく。彼ら自身の仕事ぶりや人となりはほとんど劇に現れない。唯一、人間味のある女中として描かれていたときも、今や、てんと使用人たちを隔てる壁となっており、当初、ぬかみその臭い消しで打ち解けたかに見えた女中たちとの関係もその後深まることもなく、上面のままだ。手癖の悪い長女は気ままに何かをくすねるのみならず、人の大事な喪服を質に入れ損ね、あげくの果てに庭先に放り出すことまでするのだが、てんはそれをただ笑って見過ごすだけで、視聴者には投げやりな行動の向こう側にあるかもしれない長女の屈折に触れる機会も与えられない。

 北村家にはずっと寒々しい空気が漂っている。作り手はこの家の金銭的な苦しさや人々の心のえげつなさを描きたかったかもしれないが、寒々しさはそれとは別のところから来ている。この劇には、それぞれの台詞や行動を支える来歴がなく、人らしい人が存在しない。それが見る者を薄ら寒くさせているのだ。

 ドラマはこわい。

 書き手が「お客さんの信頼を裏切るような真似をしたらあかん」と一行書けば、その台詞が役者によって実現されるのではない。書き手はその一行を書こうとして、自分はこれまで『お客さんの信頼』や『お客さんの信頼に応える者』を描いてきたかを自問せねばならない。それを問わずに書かれた台詞は、いくら役者によって熱演されようとも、空疎さを明らかにする。

 空疎さは、いわばそのキャラクターを捉えるときの齟齬とも言えるだろう。少し引いて考えるなら、ドラマに空疎さを感じるとき、受け手はキャラクターを捉え損ねているのだとも言える。では、キャラクターをキャラクターらしく捉えようとするとき、受け手は何を手がかりにしているのか。書き手にとっても受け手にとっても、空疎さは、自らのキャラクターの捉え方を問い直すチャンスなのかもしれない。