彼らの速さは、ハードコア・テクノのような、何もかもが一丸となって聞き手に押し寄せてくる速さではない。 むしろ、こちらの意識の隙を突くような速さだ。
高田渡の歌の中には、ときおり、はっとさせるようなスキマがある。
「コーヒーブルース」の「っ」のことだ。
さんじょおー、と粘るような地名が歌い出されたあとの、イノダ「っ」ていうコーヒー屋。まるで珈琲のひとしずくが落ちて、ちゃぷんと音がするまでの時間のようにしんとしている、「イノダ」の後の「っ」。「少しばかりってのを」の「っ」もそうだ。「っ」のスキマが、居心地のいい椅子のようにこちらを誘っている。少しばかりってのを、飲みたくなってくる。あの娘に声がかけられそうな気がしてくる。
しかし、そんな誘いにうかうかと乗っていいのか。「けっこん」の「っ」よろしく、そのスキマはあっけなく消えてしまうのではないか。ケッコンどころか、あの娘に声をかけることなどできぬまま、最後のい「っ」てきの勝負も、虚しく逃されてしまうのではないか。それが何より証拠には、「イノダっていう」はいつのまにか、「イノダへね」と歌い直されている。時が経ち、イノダ「へね」と言えるほどなじみの店になったころには、スキマは別の何かにすり替えられている。
高田渡『系図』から
『系図』は、1972年、高田渡が23歳のときに発表された。
年上の人々の詩が多いのに驚かされる。
ただ年上の詩というだけではない。ここに収められた詩のほとんどは、激しく短い生の詩ではなく、むしろ、生の苦さを長く生き続けていく詩である。若くして亡くなったアポリネールの詩ではなく、「捨てられ」「忘れられた」と書きながらその後を生き延びたローランサンの詩が選ばれているのは、偶然ではないだろう。
鈴木慶一の歌う街は、まるで『惑星ソラリス』のように、あちこちが人めいた感情でうごめいている。どうやら「センチメンタル通り」とは、人をセンチメンタルにさせる通りというよりも、人の生気を得て自ら感情を持つに至った通りらしい。むしろ人のほうが、通りの持つセンチメンタリズムに感染してしまうらしいのである。
探偵が「ここにはなにかある」というとき、それはふつう、探偵の頭の中に常人にはない「なにか」が灯ったことを示す。探偵は、常人には思いも寄らない「なにか」を思いつく。多くの創作者は、探偵の所作を真似て、自分がいかに名探偵であるか、思いつかれた「なにか」がいかに気の利いたものであるかを競い合う。
さて、ここに見慣れぬ探偵が現れる。探偵らしからぬ、か細い声で、ここにはなにかある、と指摘する。と思うや、探偵は思わぬ方向に推理の舵を切る。ここにはなにかあると思うわたしにはなにかが足りない、という話なのである。誰かの謎の話かと思ったら、わたしの謎の話である。わたしの謎とは難問だ。