東京のとんかつ屋で、七十は越えているだろう店の主が問わず語りに原発の話をしていた。「なんだね、この余震でまた放射能の入った格納容器が揺れてるんだろうね、金魚鉢じゃあるめえし、はい、ロースいっちょうあがったよ」。
「建屋」も「サプレッションプール」も「復水器」も飲食店で聞かれる日常語となった。知人と昼食を食べながら、1号機から4号機までの違いをあたかも病人の症状を述べるように語るようになった。原発の内部構造に関する知識は以前から開示されていたし、原発に関心を寄せる人ならとっくに議論済みのことだっただろう。
しかし私にとってこれら数々の用語は、福島第一原発の事故をきっかけに初めて口にしたことばだった。これまで原発とは、巨大な円筒や箱で厳重に囲われた「原子力」のありかだった。物理的にも精神的にもその核心には容易に触れることはできないと、無意識に遠ざけてきた。それはかつて広島と長崎に投下された原爆への、そして目に見えぬ放射能への、恐怖の裏返しでもあったと思う。
3月15日、東京で言語に関する研究会を終えたとき、主催者が血相を変えて部屋に入って来た。「娘が電話で、今、放射能が降ってくると言ってます。とにかく早く解散しましょう」。あとでそれは「健康には影響しないレベル」だったと判ったが、そのときには参加者の帰宅を急がせるに十分な現実だった。曇天の夕暮れ、人けのない街を歩いたときの感覚は忘れがたい。気のせいに違いないのだが、空から降る原発の微かな飛沫を浴びているように感じ、そう感じながら何の策もなく歩く弱々しい自分を受け入れざるをえなかった。もはや放射線を意識することからは、逃れ得ないことを悟った。実際、その頃から放射線は1かゼロかではなく「シーベルト」によって語られ始めた。
このたびの事故で、放射能に対する意識は根本的に変わってしまった。放射線は日常的に宇宙から地に降り注ぐありふれたもので、飛行機に乗れば普段より多くの線量を浴びていると専門家は言う。けれどこれまでは放射能のことを日常的に気にすることはなかった。今やその許容量のことが毎日報じられる。
目に見えぬ放射線量は測定され数値化される。ただし数値化がもたらすのは解決ではなく判断に過ぎない。判断基準は一通りではない。原発の高い放射線環境で働く人々がいる。一方で、圏内/圏外という線引きが行われ、人が土地から引き剥がされる。今居るこの場所にも、ここを中心とする半径20kmの地帯があり生活がある。それがまるごと圏内と呼ばれ「警戒区域」として立入禁止になることなど、想像できない。しかし福島ではそれが起こっている。
放射能を利用しながら忌み、意識の圏外に追いやることのできる時代は終わった。たとえ数値化され許容されても、それは繰り返し意識にのぼる。放射能のある暮らしが始まった。私たちは「圏内」に入ったのである。
(ほそまひろみち・滋賀県立大教授・人間関係学)
「現代のことば」(京都新聞夕刊2面、2011.4.28) より