「忘れていた」ということ


細馬宏通

(1)
 
 「忘れる」ということを考えるときに、思い出すことがあります。
 いつだったか、電車で、向かいに座っている見知らぬ人の脇に傘が置かれていて、わたしの降りる駅はまだずいぶん先で、何となくその傘に目をやっていたのです。そのうち電車がホームに着いて、扉が開きました。すると、向かいの人がとつぜん立ち上がって、すたすたと扉の方に歩き出したのです。「忘れましたよ」と声をかければよかったのですが、どういうわけか、ホームに出て行くその人の背中が妙に自分の背中に似ているような気がして、わたしはぼうっとしてしまいました。そして、自分は自分で何かを忘れるところを見ることができないのだ、という当たり前のことに気づいて、ひどく動揺したのです。

 この、「自分が忘れるところを見ることができない」という感じは、過去の自分を思い出すときにも起こります。

 たとえば、小雨が降り出してふと手元に傘がないのに気づく。しまったと思ってからわたしは、自分がどこでその傘を「忘れた」のか、あの駅だったか、あの喫茶店だっただろうかと、自分の「忘れた」現場を思い出そうとします。そして、喫茶店に入るときには、どうも傘立てに傘を置いた「記憶がない」ことに気づく。さらにさかのぼって、電車を降りて駅の改札に切符を入れようとポケットを探ったときの両手に、もう傘はなかったような気がしてくる。では、電車に乗るときはどうだったか。確かわたしは端の席に座って、その席のひじ掛けのでっぱりに傘を置いたはずです。ときどき傘の柄がひじ掛けからずれそうになって、ちょっと押さえたのも覚えています。となると、どうやら電車の中に「忘れた」らしい。

 たぶん、電車を出るときが、わたしが傘を「忘れる」決定的瞬間だったのです。けれども、じつを言えば傘に気づかなかったのは、電車を降りるときだけではありません。電車がホームに着く少し前から、わたしは傘がどうなっているか気にもとめていなかったような気がします。いや、それどころか、電車にいるあいだ、傘に気をとめていた瞬間など、ほとんどなかったと言っていいかもしれません。さらに、電車を降りたあと、手がなんとなく軽くて物足りない感じがしたはずなのに、その物足りない感触というのが、これまたよく思い出せません。
 こんな風に思い出してみると「傘を意識しなかった時間」というのはじつはいくらでも見つかるのです。
 もちろん、電車を降りるときに、少しでも傘に目をやれば、傘を取り上げて電車を降りたはずです。その意味で、「傘を意識しなければならない瞬間」があったことは確かです。
 ですから、「傘を忘れた瞬間」とわたしがあとから考えるのは、正確に言えば、「傘を意識しなければならなかった瞬間と、傘を意識しなかった時間の重なり」のことなのです。
 
 じつを言えば、わたしは傘を扱っているときでさえ、傘のことを意識しているとはかぎりません。手に提げているときに、いつも傘の重みを感じているわけではないし、傘を取るときだって、そういつもいつも「傘を忘れてはいけない」と意識しているわけではない。
 そう考えると、じつはわたしは電車を降りるときにいつものクセで傘をひょいと取り上げて降りたのに、そのことを思い出せないだけなのではないか、という気もしてきます。そういえばわたしは電車を降りてから、ホームの自動販売機で缶コーヒーを買ったのを思い出します。とすると、もしかして、その販売機のかたわらに置いたのではないでしょうか。
 こんな風に、傘を意識しなければならなかった瞬間がいくつも現われると、わたしの考えはとたんに揺らいでしまいます。あそこにもあそこにも、わたしの傘が置き忘れられているような気がしてきます。

 わたしは、自分がいつ傘を意識し、いつ意識しなかったかを、一刻一刻正確に思い出すことはできません。ただ、傘を意識しなければならなかった瞬間をいくつか拾い上げて考え、その瞬間に、自分の意識が傘にとどいていないのに気づくとき、自分はおそらくその瞬間に傘を「忘れた」のだろう、と考えるしかないのです。


(2)

 「忘れる」ということばには、考えてみると不思議な性質がいくつかあります。
 たとえば「わたしは傘を忘れている。」ということばは、文法の上ではなんの問題もありませんが、ちょっとおかしな感じがします。自分のいまの状態を指して「わたしは傘を忘れている」と言えるわたしは、まさにいま、わたしと傘のことを思い出しているからです。思い出せることをどうして「忘れている」と言えるでしょうか。
 いっぽう、「あなたは傘を忘れている。」「彼は傘を忘れている。」と言うことはできる。電車から降りて傘を持っていない人に「傘を忘れてるよ」と言えば、その人はあわてて電車に戻るでしょう。「いま傘を忘れている」という状態は、他人によってしか言い当てられないのです。
 他の動詞ならどうでしょうか。「わたしは走っている。」「わたしは探している。」どれもそれほどおかしくない。
 どうやら「忘れる」ということばには、他の動詞にはない奇妙な性質があって、それは、「自分は自分でいま何を『忘れている』か、言い当てることができない」ということと関係しているようです。

 このことは、現在の自分ではなく、かつての自分のことについて「傘を忘れている」と言うばあいを考えると、さらによくわかります。たとえば日記を見ながら、「わたしは10月10日にも、11日にも傘を忘れている」ということはできます。つまり同じ「忘れている」でも、過去の経験や記録のことを言うばあいは「わたしは傘を忘れている」と言っても不自然ではないのです。


(3)

 わたしたちは、何かに気づくとき「あ、忘れた」あるいは「あ、忘れていた」と言います。自分で自分の状態について「あ、○○した」「あ、○○していた」ということは、ふつうの動詞にはあまりないことです。走っている人が自分のことを「あ、走った」「あ、走っていた」と言ったり、捜している人が「あ、捜した」「あ、捜していた」と言うのは、よほどのことです。たぶん、走ったり捜したりしながら、疲れでもうろうとしていたか、うとうとしていたに違いありません。
 こうした表現にうまく合うのは、かぎられた動詞です。たとえば、字を書き損じて「あ、まちがえた!」という。あるいは、約束の時間から何分も過ぎているのに気づいて「あ、遅刻した!」という。あるいは自動車を運転していて、いつのまにかセンターラインを越えているのに遅れて気づいて「あ、センターライン越えてた!」とあわててハンドルを切る。
 自分がおぼえていることをさして「あ、おぼえてた」とはあまり言いませんが、たとえば何十年ぶりかでひもを手にとって、手が勝手に動いていつのまにかあやとりができてしまったときに、「あ、おぼえてた」ということはできます。
 どうやら「あ、○○した」「あ、○○していた」ということばは、意識しないうちに自分とかかわりのあるできごとが発生していて、それに自分の意識が遅れて気づくときに発せられるようです。

 「忘れる」という動詞には、この性質はぴったりあてはまります。ある状態が進行しているにもかかわらず、自分がずっとそれに気づかずにいる。次の瞬間、「あ」という声とともにその人はその状態を「忘れていた」ということに気づきます。
 多くの動詞では、「あ、○○した」「あ、○○していた」ということ、すなわち「できごとに自分が遅れて気づく」ということは特別なばあいでしか表現されません。それに対して、「忘れる」という動詞にとって、「できごとに自分が遅れて気づく」ということは、むしろ本質なのです。


(4)

 わたしたちは目の前に物がないときに、忘れ物に気づくことが多い。「あ、忘れた」も「あ、忘れていた」も、目の前になにかがないときによく発せられます。ですから、つい「忘れるということは目の前の不在が原因なのだ」と考えたくなります。

 しかし、よく考えてみると、目の前に物があるときでも「あ、忘れた」あるいは「あ、忘れていた」が発せられるばあいがあることに気づきます。

 たとえば、わたしの目の前にとつぜん空気枕があらわれたとき、「あ、(空気枕を)忘れていた」と言って空気枕をカバンに入れることができます。つまりわたしは、空気枕を見て、空気枕をカバンに入れることを忘れていたのに気づくわけです。
 ただし、空気枕をあちこち探したあげくにようやく空気枕が目の前に現われたときには「あ、(空気枕を)忘れていた」とは言えない。あるものをあちこち探すという状態は、「あ、(あるものを)忘れていた」の直前としては、ふさわしくない。いっぽう、別のもの、たとえばあちこち探していた寝袋を見つけたときに、「あ、(空気枕を)忘れていた」と言うことならできます。
 ということは、目の前に空気枕があるかどうかが問題なのではなく、むしろ、直前の自分の状態、つまり「空気枕」に対する感覚が欠けているという状態が、「あ、(空気枕を)忘れていた」ということばにつながっていることになります。言い換えれば、「あ、忘れていた」というとき、わたしは、なにものかに対する感覚がたったいままで自分に欠けていたこと、いわば自分の感じるべきだった感覚の不在に気づくのです。

 「忘れた」はどうか。いきなり空気枕が目の前に現われたのを見て、「あ、(空気枕を)忘れた」とはふつう言いません。しかし、「あ、また忘れた。わたしったらうっかりしてるなあ。」とか「あ、また忘れた。2回も忘れるなんて」ということはできます。どうやらいままでの忘れの履歴を言うときは「あ、(また)忘れた」と言えるようです。
 さらに、空気枕を見て、突然それを人に渡す約束をしていたのに気づいて「あ、(空気枕を人に渡すのを)忘れた」ということもできます。
 ということは、「忘れた」でも、やはり、目の前に空気枕があるかどうかが問題ではない。空気枕の存在をきっかけに、過去のある時点で空気枕に対する行為が欠けていたこと、いわば自分の為すべきだった過去の行為の不在に気づくのです。


 以上からわかるように、「あ、忘れていた」も「あ、忘れた」も、単に目の前にものがない、という不在感だけでは説明できない。たとえ目の前にものがあったとしても、そこからわたし自身の感覚や行為の不在感へと注意が向かないと、これらのことばは発せられないのです。


(5)

 ここまでですでに明らかになったように、じつは同じ「忘れる」という動詞でも、「あ、忘れた」と「あ、忘れていた」のあいだにはいくつか違いがあります。

 たとえば、旅仕度をしながら、カバンの中に空気枕がないのに気づくとき、「あ、忘れていた」と言うのと「あ、忘れた」というのとでは、少し状況が違ってきます。
 「あ、忘れていた」といったあと、たとえばわたしは、部屋のどこかから空気枕を探し出してカバンに入れることができるかもしれません。わたしに欠けていたのは、空気枕そのものではない。わたしに欠けていたのは、カバンに空気枕がないという感覚(不在感)だったのです。
 が、「あ、忘れた」のばあいはどうか。おそらくその場に空気枕はありません。わたしはたとえば、あらかじめどこかの店で空気枕を買っておけばよかったのですが、それをしなかったために、「あ、忘れた」と叫ぶはめにおちいったのです。このように、「あ、忘れた」には、ある種のとりかえしのつかなさが含まれています。
 「あ、また忘れた。これで二回目だ。」のばあいはどうか。わたしは「あ、忘れていた」と同じく、部屋のどこかから空気枕を探し出してカバンに入れるかもしれません。しかし、二回忘れたという履歴にはとりかえしがつきません。

 さて、旅先で、カバンの中に空気枕がないのに気づいて、わたしは「あ、忘れた」と言います。このときわたしが悔やむのは、なぜ自分はあのときカバンに空気枕を入れなかったのだろう、ということです。ここでも、とりかえしはつかない。「あ、忘れた」では隔たった過去に注意が向いています。
 それから何日かして、そろそろ寝ようと旅行カバンの中をのぞきこんだわたしは、今度は「あ、忘れていた」と言います。このとき、わたしが悔やむのは、空気枕がないことをすでに一度確認していたはずなのに、なぜいまのいままで気づかなかったのだろう、ということです。「あ、忘れていた」では直前までの過去に注意が向いています。

 ここで、電車に傘を忘れる話を思い出しておきましょう。わたしは、何かを「あ、忘れた」と感じるとき、その何かを意識しなければならなかった瞬間をいくつか拾い上げて考える。そして各瞬間に、自分の意識がその何かにとどいていないのに気づく。過去になんらかのできごとが時間的にひろがっていて、そのひろがりの中の特定の時点に、為すべきであった行為を見いだす。これが「あ、忘れた」という感じでした。

 「あ、忘れた」でも「あ、忘れていた」でも、直前から過去に向けて、できごとがひろがっている。しかし「あ、忘れた」では、その広がりの特定の時点に、自分の行為の不在を見いだそうとします。いっぽう、「あ、忘れていた」では、その広がりのいちばん最近の時点、つまりいまの直前の時点にいたるある時間の長さに、自分の感覚の不在を見いだそうとします。

 どうやら「あ、忘れた」と「あ、忘れていた」との違いは、その注意が過去のどこに向けられているかにあることがわかってきました。
 「あ、忘れた」では、時空間の配置変化によって、過去の自分の行為の不在に注意が向けられます。つまり、「あ、忘れた」は、「隔たった過去における自分の行為に対する不在感」のあらわれです。
 「あ、忘れていた」でも、時空間の配置変化がきっかけとなります。しかしそこからは「忘れた」とは違う。わたしは、ほんの直前まで自分がある感覚に気づいていなかったこと(感覚の不在)に注意を向けます。つまり、「あ、忘れていた」とは、「直前までの自分の感覚に対する不在感」のあらわれです。


(6)

 すでに書いたように、他人はわたしが忘れていることを言い当てることができますが、わたしは自分が忘れていることを言い当てられません。そのため、わたしは、他人から言い当てられてはじめて、自分が何かを忘れていたことに気づくことがあります。「忘れ」が明らかになる過程では、他人がかかわりやすいのです。

 たとえば、誰かに「空気枕は?」とたずねられたとします。このとき、「そうそう、忘れていた」ということはできますが、「そうそう、忘れた」はおかしい。いっぽう、「空気枕は?」「あ、忘れた」ならおかしくない。
 「忘れていた」のほうは、相手のことばを「そうそう」と認めることができるのに、「忘れた」のほうは「そうそう」と認めることはできず、「あ」と、あくまで自力で気づかなければならない。
 
 ここから、「忘れていた」と「忘れた」とのもうひとつの違いがわかってきます。相手のことばは空気枕そのものではありません。「空気枕は?」ということばによって喚起させられるのは、相手の注意に対応する「空気枕」がないこと、つまり「不在感」です。
 相手のことばに対して「そうそう」と応じることは、自分にもその不在感が生じたことを認めることです。そして、その不在感がいままでは生じてこなかったと認めるとき、「不在感の不在感」が遅れてやってきます。わたしは「そうそう、忘れていた」と続けます。「忘れていた」では、いま自分にも相手と同じような感覚(不在感)が生じていることを認めながら、それまでその感覚(不在感)が不在だったことに注意を向けています。
 いっぽう、「あ、忘れた」とわたしが言うとき、わたしは「感覚の不在」よりも、わたしの過去の行為が不在だったことに注意を向けている。「忘れた」とは、本来自分が行なうべきだった行為を認めながら、ある時点での「行為の不在」に注意が向くことなのです。

 つまり「忘れていた」では、自分の感覚の不在にさかのぼっていくにあたって、いまの不在感を相手と共有できるのに対して、「忘れた」では、自身の過去の特定の時点へと退却するにあたって、いまの不在感を「そうそう」と認めることができない。

 「そうそう、忘れていた」とわたしが言う場合、そこでその話が終わるわけではありません。おそらくわたしは、その場から空気枕を探し出して、カバンに詰めたり、相手に「ハイ」と手渡すでしょう。つまり、「そうそう」ということばは、単に相手のことばに現われた不在感に和しているだけでない。相手のことばによって現れた、自分と相手の不在感を解消する方向に注意を向けている意味でも「そうそう」なのです。
 いっぽう、「あ、忘れた」とわたしが言う場合、わたしはすでに空気枕を入れるという行為をやりそこなったあとです。それが旅行前だとしても、その行為をもう一度やり直さなければならない、たとえば、どこかの店へ行って空気枕を買いに行かなければならない。旅行後だとしたら、もはやとりかえしがつかない。ですから、「あ、忘れた」のあとの不在感は解消されるとは限らず、あきらめられる場合が出てきます。

 このように考えていくと、「忘れていた」はどちらかといえば未来志向的でとりかえしがつきやすいのに対し、「忘れた」のほうは過去志向的でとりかえしがつきにくいことがわかります。


(7)

 相手に「今日わたしと会う約束だったでしょう?」と言われたとき、わたしたちはふつう「あ、忘れた」ではなく「あ、忘れていた」と答えてしまいます。
 「あ、忘れていた」と答えることは、いま約束を思い出したという意味を含んでいます。相手のことばに対して「あ、忘れていた」と答えるとき、わたしは単に約束を忘れただけではなく、「自分は約束を思い出せるにもかかわらず、いまのいままで気づかなかった」ことを明らかにしているのです。
 わたしは、「あ、忘れていた」ということで、約束に対する感覚を相手と共有しながら、それまで約束に対する自分の感覚が不在だったことを悔い、さらに「ごめん」と付け足してから、相手に何か埋め合わせをしなければと考えます。「あ、忘れていた」といった瞬間にそれだけの借りができてしまうのです。

 約束の当の相手に「会う約束は?」とたずねられて「あ、(会うのを)忘れた」と答えるのは、不可能ではありませんが、いかにも不自然です。会うという行為はすっぽかされてしまってもはやとりかえしがつかないのですから、「あ、(会うのを)忘れた」という言い方は、うまくあてはまりそうな気がするのに、じっさいはうまくあてはまらない。
 いっぽう、約束の相手ではない人から「そういえば彼と会う約束してなかった?」と言われて「あ、(会うのを)忘れた」と答えることならあります。このことから、「忘れた」と言えるかどうかには、相手と約束の感覚を共有するかどうかがかかわっていることがわかります。約束の当の相手を前に、約束の感覚を共有しないことは、むずかしい。しかし、約束とは関係のない相手となら、約束を共有しなくてもさほど不自然ではないのでしょう。わたしは、「あ、忘れた」と、彼と会うのをすっぽかしたことを心の中で悔いながら、目の前の相手とは楽しく時間を過ごしてしまうかもしれません。

 当の相手に「さあ、(約束なんて)忘れた」としらぬふりをすることは、できなくはありません。が、完全にしらを切ったことにはなりません。なぜなら、「忘れた」と判断できるということは、その対象である「約束」を忘れたか忘れていないか判断できるということであり、つまりは、指し示し可能な「約束」らしきものがその人の意識にあることを示しているからです。
 「(○○を)忘れた」と人がいうとき、たとえ○○の内容は思い出せなくとも、○○が意識の中で指し示し可能な輪郭を伴っていることは確かです。「彼女のことなんて忘れた」ということばがどこか強がりに聞こえてしまうのは、その人が、「彼女のこと」と忘れた対象を特定できるていどには「彼女のこと」を意識しているとわかってしまうからです。
 ですから「約束は?」「忘れた」と答えたとしても、おそらく「とぼけてもだめ」と言われるのがオチでしょう。本当に心当たりがなければ、「え?約束?」とでも答えるところでしょう。

 少し話がそれました。ともあれ、約束についても、他人とのやりとりで発せられる「あ、忘れていた」には、「あ、忘れた」にくらべて、より回復的なはたらきがあることがわかります。それは「忘れていた」ということばが、話し手の過去の感覚の不在だけでなく、いま現われた感覚の存在を浮かび上がらせて、約束の感覚を相手と共有してしまうからでしょう。  



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