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20000807


Roma




 朝早く、ゆうこさんをFiumicino空港まで送って帰ると強烈な眠気に襲われる。14:00ごろまで眠る。

 今日はあちこち行くのはヤメ。となるとどこかひとつだ。本屋でガイドブックをぱらぱらと立ち読みしてから聖イグナチオ教会(サンティナーツィオ教会)に決める。美術本でよく見る、だまし絵(トロンプ・ロイユ)の天井画がある教会だ。

 入ると、妙な気配がする。それはやはり天井からで、まず、あ、高いなと思う。高すぎてなんだかよくわからない。とりあえず中央に進んで見上げてみる。なるほど吸い込まれそうにあちこちから高みが目指されている。陰影のつけ方が見事で、五大陸の下方に描かれた人物たちは天井からはがれ落ち、地上に投げ出されそうだ。しかしこの空間はどこか妙だ。何かが歪んでいる気配がする。







 まずその気配は絵の下部の、柱や窓枠のあたりから来る。影が妙だ。たとえば漆喰細工の薄桃色の天使があやしい。漆喰細工にしては陰影が淡くて浮き世離れしている。正面から近づいてみるがなぜかわからない。そこで少し横に回ってみると、驚いたことにそれはただの絵で、しかもこちらに曲がっていると見えた天使の左足首は、柱の角に沿って逆に曲がっていた。さらに、金色の葉のような装飾もまた、凹凸のない絵であることがわかる。






 これは油断ならない。実に剣呑な場所だ。そうなると、あの、腹に燭台を下げる穴の空いた天使ももしかしてそうなのか。と、下まで行ってみると、もしかするのだった。上半身は天井に描かれ、下半身は壁側に描かれている。






 となると、あの天使の掲げているメダリヨンもまさかそうなのか。と、正面に回ってみると、そのまさかだ。メダリヨンは大胆にも斜めに歪められた絵だ。






 
 そしてこれらの天井画のあちこちのしかけ(そのすべてについて詳しく書けばたぶん視覚心理学の教科書になる)に圧倒されてやれやれと奥のドームに入ると、さらに度肝を抜かれることになる。(以下略)





 あちこちに仕組まれた歪みを経て、いま一度天井画の中心に立ってみる。すると、理屈の上ではすでにパースの狂った絵だとわかっていながら、やはりこの奇妙な空間に入り込んでしまえることに気づく。そして歩きだせば、またしても目の眩むような歪みが襲ってくる。
 ちょうど聖アントニウスの精神を試すかのように誘惑がますます過剰になっていくのに似て、聖イグナチオの魂の眼を試すかのように世界の歪みはますます激しくなっていく。


 だまし絵、と呼んでしまうと、虚構を現実と見紛わせる絵のように聞こえる。しかしそうではない。

 「現実かウソか」、という問題よりも前に、まず、「平面か立体か」という問題がある。人間の視覚は、まずこの絵の中にさまざまな奥行きの手がかりを見いだし、あらぬはずの奥行きを感じる。この奥行き感は動かしがたいもので、このレベルでは人間は「だまされる」。
 しかし、奥行きを感じることがすなわち現実感を生むわけではない。絵は動かない。描かれたできごとはこの世のものではない。それは即座に理解できる。にも関らず、奥行きが感じられてしかたがない。
 この世のものではないものに、この世のものではない奥行きを見せる。それがこの絵で目指されていることの一つだ。

 そして、ある点から見える奥行きが、別の点では破綻すること。逆に、あらゆる破綻を含んだ空間が、ある特別な視点から一つの世界に見えること。それを明らかにするのが、この絵で目指されているもう一つのことだ。破綻を見つけることは世界を傷つけない。むしろ、特定の点から世界が生まれるという事態への驚きが増す。かくして聖イグナチオの眼は称えられる。

 だまし絵を見るには歩かなくてはならない。絵を見ることは、絵の中を探すことではなく、我が身の位置を探すことでなくてはならない。歩くことが成り立たたせようとする世界を探り、世界を成り立たせようとする我が身を探り、そしてまた歩きだし、破綻しなければならない。

 だまし絵という体験はきわめて生態学的であり、ギブソン的だ。下条信輔の十字図形の逆のことがここでは起こっている。彼の十字図形の話をここでぐっと翻案すると、ヒトは世界があらゆる角度から同じように遮蔽されるという想定のもとに奥行きや遮蔽を見ている(もしくは想定する間もなく生得的にそういう見方をしてしまう)。ところがだまし絵では、世界は一点からしか見えない。しかし、そのたった一点に立つとき、ヒトの視覚は、そこからの見えを手がかりに、奥行きや遮蔽を構成し、空間を覆っていく。
 そしてわたしはだまされる。歩きだせば世界から逃れられると知りながら、世界を視覚に委ねる。
 そして委ねきったところで、わたしはまた歩きだす。世界を打ち壊すために。




 いったん聖堂を出る。表は波打つサンティナーツィオ広場だ。誘うげな小路に入って軽く昼食。そしてまた聖堂へ。
 ようやく表に出て通りすがりの半地下を覗くと骨董屋らしく、ちらとアルバムに入れられた絵葉書が見える。入ると、ごっそり10冊はあって、日本ものもちらほら。啄木のいた頃の小樽の写っている絵葉書を買う。
 北に向かってこれというあてもなく歩くうちにテヴェレ川のほとりに出る。暮れかかる空を背負ったサンタンジェロ城の馬鹿馬鹿しいほどの要塞ぶり、ベルニーニの彫像たちを見て、Spirito通りから小路に。小ぶりな店で食事。

 さらに歩く。もはや歩くというよりただ迷っているだけで、広い通りに出たので記憶にある番号のバスに乗ると、なんとかテルミニ駅まで戻った。
 ホテルで残り物のワインを飲みながらTV。なぜかカードによる占い番組?がやたら多い。イタリア語の魔女っ子メグちゃんとジャングル大帝を見る。

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Beach diary